| 次の蒼天まで暇なので、ここでひとつ。
私の唯一の三国志の本、「三国志人物辞典」新紀元社、小出文彦監修のホウ統の欄によると。 劉備が劉ショウに招かれ会見した時、ホウ統は「劉ショウをここで捕らえろ」と進言してます。しかし劉備は「恩愛や信義が表れていない」と拒否。 そして劉備が二将を斬り、攻め込み、連戦連勝で酔いしれて酒宴をひらくと、ホウ統が「他国を征伐して喜んでいるとは仁者の戦いではない」と諫言。 パッと見は、なるほどと思ったのですが、しかしよく考えてみると明らかに矛盾している。この本ではこれが正史だという。 あきらかに劉備は他人の領土をだまし獲っているのだから、儒でいう不義。しかしいつのまにかそれが隠れてしまい、しかも二人が立派な儒者になっている。くさい。 皆さんの本ではどうなってます?
また蒼天航路と私のかすかな知識では、当時の儒者は曹操をたてて皇帝にしようとしているのに、後の世では帝位簒奪の悪役にしたてあげ、しかもかわりに劉備を立派な儒者にしたてあげてる。 これは明らかに儒の策謀ではありませんか?
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No.8466 - 2003/06/23(Mon) 22:23:53
| ☆ 儒論 / アベール | | | | 反り返ってしゃべります。
今週の蒼天で劉備がカン中に攻め込まず、慣れもしない内政に力を入れていたのは、兵を温存し益州に入る際、手際よくするため民の信頼を得るためでは。
宮城谷昌光さんは私も読んだことがあるのですが。どうも嘘っぽい、そもそも史記からして怪しい。 昔から儒教があったことは認める。孔子がそれを広めたことも事実であろう。しかし、商、周、春秋、戦国の時代に儒があんなに盛況だったとは思えない。 儒が国教になって一般の民まで普及したのは漢の時代からで、それ以前の君主が心得ていたとは思えない。
歴史を改ざんし自分達の権力を広める儒者こそ孔子のいう「トン」ではないか。 曹操もそれで偽れざられた。蒼天航路の一巻の最初でゴンタさんはそれをいいたかったのではないでしょうか。
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No.8474 - 2003/06/24(Tue) 23:41:43 |
| ☆ Re: ホウ統論 / TATSU@管理人 [関東] | | | | > しかしよく考えてみると明らかに矛盾している。この本ではこれが正史だという。
その本で無くても、正史ではそう記載されてますよ。ホウ統の発言の矛盾については正史「ホウ統伝」の注にて裴松之がこう述べています。
劉璋を襲撃するという計画、その策略はホウ統の提起したものであるが、しかし道義に背いて功業を成就したもので、本来邪道である。 内心で気がとがめていたとすれば、喜びの情はおのずとしぼむもので、そのため劉備の「楽しい」という発言を聞いて、思わず言葉が口をついて出たのである。 劉備の酒盛りは時宜を逸したもので、その行為は災禍を楽しむ態度と等しい。みずからを武王に擬して少しも恥じる様子が無かった。これは劉備のほうに非があって、ホウ統には過失が無い。
つまりは、ホウ統も「劉璋襲撃」は "邪道" だと承知の上で敢えて進言してるんじゃないでしょうか。それなのにその "邪道の行為" のあとで、劉備が衆目の前ではしゃいじゃったので、思わず諌言したんだと思います。
> 当時の儒者は曹操をたてて皇帝にしようとしているのに、後の世では帝位簒奪の悪役にしたてあげ、しかもかわりに劉備を立派な儒者にしたてあげてる。これは明らかに儒の策謀
それは穿ち過ぎかもしれませんね〜。 正史でそれなりに評価されてる曹操が「悪役」となり、劉備が「正義の人」となったのは、長い年月をかけて「民間伝承」されるうちに形成されてることですし、それを1,300年後に纏めあげたのが「三国志演義」ですなんですが、羅貫中は「儒の策謀」としてそれを編纂した訳では無いと思います。
> 宮城谷昌光さんは私も読んだことがあるのですが。どうも嘘っぽい
そうですか? 管理人的には宮城谷先生ほど、他の小説に比して「嘘っぽくない」小説は無いように感じたんですが...
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No.8480 - 2003/06/25(Wed) 23:18:00 |
| ☆ Re: ホウ統論 / 悠々 | | | | 宮城谷先生はともかく(?)、史記は怪しいと思います。 小説的な話が、けっこうありますから。別に司馬遷は、嘘をついてるわけでも、小説家を目指していたとも思えませんけど。始皇帝の焚書坑儒はなかった、と書いている人もいました。
また、正史三国志訳本のちくま文庫の後書きを読むと、魏正統論は建前で、蜀を正統とする記述が見え隠れしているそうです。
司馬遷や陳寿が儒者であったかどうかまでは、知りませんが。
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No.8482 - 2003/06/26(Thu) 02:46:08 |
| ☆ 地に確たる歴史などない / Caocao | | | | 史書がウソっぽいということについて、少しだけ。
『きらめく群像』(高島俊男著)を読んだ方なら憶えていることでしょう。 「四大スター 諸葛亮」の項で、正史にも演義顔負けのフィクションがあると言っています。
隆中対の天下三分云々、諸葛亮のセリフについて 「三度目にやっと劉備にあってやった諸葛亮が人ばらいをして言った」というところの、「人ばらいをして」に眼をとめて、数十万人の目の前で行われた赤壁の戦いのことさえもうわからないのに、どうして二人だけの機密の話がきちんと録されているのはなぜかと問うて、こう解きました。
“実はこれが中国の史書の特質ないし習慣なのであって、前後の事実の脈絡に抵触しなければ、人物の発言は自由に作ってよいのである。あるいは、そここそが歴史家の腕のふるいどころなのである。(中略)事実だけを列挙したのでは歴史は索漠たるものになってしまう。その所々に、歴史をいろどった顕著な人物たちの、あるいは熱誠溢れる、あるいは犀利な、あるいは沈痛な発言がちりばめられている。それでこそ文質彬彬たる中華の歴史なのである”
この部分が、高島先生がこの本でもっとも言いたかったところだと思います。もちろんこれは高島先生の独断ではありません。中国歴史上最大の歴史家である司馬光も同じようなことを言っています。
『史記の風景』(宮城谷昌光著)にこんなことが書かれています。
“秦王朝打倒の先陣をきった人物は陳渉である。この人は若いころ、人にやとわれて農作業を行っていたが、あるときため息まじりに、―燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。(『史記』「陳渉世家」)と、いったことは有名である。ツバメやスズメに大鳥の志がわかろうか、といったわけで、陳渉が自分を大鳥になぞらえたことは、周王朝のイメージをひきずっており、かれの革命思想が周王朝の復興であることを予想させる。”(「竜のイメージ」より)
私は三田村掾魚の一派ではありまんが、試しにこれを批評すればこうなります。
手拍子に属するものがある。陳渉ごときがそんなことを考えるわけがない。 日雇い百姓の陳渉が、同じ日雇い百姓の仲間に「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」といったという。百姓がこんな知識人のような立派なセリフを言うわけがない。そもそも、誰がこんなことをいったと記録しているのか。農作業をしているときに、傍に史官でもいたというのか。人間えらくなると、こういう御立派なエピソードをこしらえるもの。陳渉も漢高祖並みに下賤の人であります。もし陳渉が言ったとしても、「将来でっかくなってやるぞ」程度でしょう。 「嗟乎、燕雀安知鴻鵠之志哉」なんて、歴史家の卓犖たる見識がなければでてこないセリフであります。これを引いて陳渉自身の革命思想云々なんていうのは、シロウト目からみても心細い気がする。・・(後略)
史書には「燕雀安知鴻鵠之志哉」の類の会話文は、枚挙に暇がないほどあります。 史書の叙述は小説めいていますが、当時はそれが“歴史”です。
裴松之は、史書の叙述に何かと文句をつける批評家で、私の行ったような批評の仕方をしていることもありますが、他の歴史家の注釈は少し違います。 史書に注釈をつけている歴史家たちは、多くの場合、事実の探求をしているのではなく、叙述を元に倫理や道義等を論じています。 同じ史書内でも、食い違っていたり、矛盾している箇所があって、それを指摘したりすることもありますが、裴松之でも「どちらが正しいのか言及する必要はない」といって切り捨てることもあります。 後世に伝えるべきものは、事実だけでなく、その時代の価値観や放置しておけば埋没してしまう正義であって、歴史観が現代とは違うのですね。もちろん、この正義というのは当時の価値観に基づく正義であって、時代によって正義でなくなることもあります。その価値判断を後世に委ねるのが歴史ということでしょう。
司馬遷は優れた歴史家であって、自らの思想を権威付けようとしていたのではないと思います。陳寿もそうです。 もしそういう意図があったのなら、歳月による淘汰をしのいで生き残るだけの器量を持った『史記』『三国志』はできなかったでしょう。
なんだか講釈っぽくなってしまいました。すみません。 とにかく現代とは歴史観が違うということです。 また、事実の探求が歴史学の本来の目的ではないということです。
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No.8483 - 2003/06/26(Thu) 09:34:57 |
| ☆ Re: ホウ統論 / アベール | | | | 言い過ぎました。 曹操の百世の恨みと劉備の人気に儒が乗っかった、と見るべきか。 天に確たる意思などなく、地に確たる歴史もない。ありえないからこそ小説か。
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No.8484 - 2003/06/26(Thu) 09:36:25 |
| ☆ Re: ホウ統論 / アベール | | | | 書いてる間にスレ入ってありました。 いろいろどうも。 「事実の探求が歴史学の本来の目的ではないということです」 そうかー人間ってそんなもんなのかー。 「人間はすでに成長を終えた」 なんか少し分かったような気がする。
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No.8485 - 2003/06/26(Thu) 10:14:39 |
| ☆ Re: ホウ統論 / 悠々 | | | | 人物の発言は、歴史家の自由だったのですか。でしたら『史記』は、やはり最高傑作ですね。小説として読んでも、面白いです。 ただ時代の価値観と正義について、気になったことを一点だけ。 いま『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』(中央公論社)を図書館から借りて読んでるんですが、それによると、『晋書』から、皇帝の命による勅撰で皇帝自らが歴史の編纂に口を出す悪例をつくり、多くの編纂者たちが携わってしまったために主義や主意がかれらにゆき渡らず、著述とは言えないものとなった、として内藤湖南氏が歴史づくりの堕落のはじまりであると嘆いたそうです。 実際に『晋書』の場合、唐の太宗自身が司馬懿や司馬炎の伝を著していますし、自分の先祖のことを改ざんさせてるんじゃないか、という疑いもあるみたいです。また、太宗の時代に、正史二十四史のうち六史も編纂させているところを見ると、あながち嘘ではない感じがします。 そう考えると、史記、漢書、三国志、後漢書の四史までは個人の筆によるもので、時の為政者と戦う姿勢、おもねらない姿勢があったように思えます。それほど正史をちゃんと読んでませんけど。『後漢書』は翻訳の最中ですし。
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No.8486 - 2003/06/26(Thu) 16:03:38 |
| ☆ Re: ホウ統論 / アベール | | | | ありがとうございます。 「時の為政者と戦う姿勢、おもねらない姿勢があったように思えます」なるほど。 蒼天の「陳寿の正史・武帝紀に、諸・葛・亮・孔・明その名はどの一字として遺されてはいない」・・・気になります。 考えすぎかもしれませんが、孔明とゆう名は孔子を連想させるような感じが。ちなみに、 諸葛「亮」ーーー物事に明るい意。 生みの親「珪」−角のある玉の意 育ての親「玄」−黒い糸、奥深い、すぐれている 弟「均」ーーーーととのえる、土をならす 兄「キン」−−ー美しい玉の名 諸葛亮とその育ての親の諸葛玄、その二人の名だけ「すぐれている」とゆう意。そして演義でのあの経歴・・・どうもくさい。
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No.8495 - 2003/06/27(Fri) 09:52:15 |
| ☆ 千年後には / がんが | | | | わくわくと拝読しております。 わたくしの行った当時の女学校の世界史の試験では、なんと言ってもフランス革命にさしかかると最高点がばんばん出るのでございました。ただ、先生は授業中に「オスカルはいませんことよっ!」と何度も叫ばなければなりません。 古代の史家の最新の作業が時代を経て、史実とされ読み継がれ篩いにかけられる。吉川三国志を読んだときには、連載当時の日本の風の匂いを想像したものです。 後世、蒼天もいろいろな人の手に口にかかるのでございましょう。
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No.8497 - 2003/06/27(Fri) 10:32:07 |
| ☆ Re: ホウ統論 / Caocao | | | | こんにちは〜
三田村掾魚ではなくて三田村鳶魚でした。失礼しました。 『宮本武蔵』(吉川英治著)をはじめ江戸を舞台とした大衆文藝を、時代考証によって批評して、コテンパンにやっつけた人です。『宮本武蔵』(吉川英治)がなぜ不評をかったのかがわかります。
一応断っておきます。 宮城谷先生の本に文句つけていますけど、ああいう講釈は歴史小説では生きます。 『史記の風景』は小説ではありません。 私の個人的な批評であります。鳶魚先生に比べれば、私ごときの批評は、陳腐でソフトなモンです。
“人物の発言は自由”といってもきちんとした制約がありますからね。 (中略)でだいぶ省きましたけど。 『三国志 きらめく群像』(高島俊男著/ちくま文庫)をオススメします。 “歴史の面白さ”を十分に伝えてくれる本です。 作品考の文献考にも紹介されています。 こういう本が、どうして小説に負けてしまうのか不思議でなりません。 その思うところを遠慮会釈なく、ざっくばらんに語りかける独特の話法。 常識の不自然を捉える深部感覚の鋭さは、ほかの著書でも健在であります。
>天に確たる意思などなく、地に確たる歴史もない。
いや〜、かぶっちゃいましたね(笑)。
>史記、漢書、三国志、後漢書の四史までは
「宜しく正史を読むべし、正史のうち宜しくまず四史を読むべし」ってやつですね。
>吉川三国志を読んだときには、連載当時の日本の風の匂いを想像したものです。
日本人向けにアレンジされていますよね。ある人物が何回も死んでいるとかいろいろと指摘されますが、この本の価値はいかほども下がりません。北方謙三が「いずれ古典になる」とかいっていますけど、北方三国志よりは長生きしてほしいですね。 (ああ、北方ファン方、すみません)
>後世、蒼天もいろいろな人の手に口にかかるのでございましょう。
そうですね〜。後世の批評家の鑑識眼しだいですね。手放しで賞賛するわけには行きませんけど、なにしろジャンルが漫画ですからね。少なくとも私には意義深い漫画であります。“何を描くか”というよりも“どう描くか”で優れている漫画でしょうね。
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No.8498 - 2003/06/27(Fri) 14:40:48 |
| ☆ Re: ホウ統論が歴史論に変わってしまいますが / bayazid [近畿] | | | | 楽しく拝読させていただいています。 Caocaoさんの仰る「後世に伝えるべきものは(中略)その価値判断を後世に委ねるのが歴史ということでしょう。」私も同意します。「いつ」「何処で」「誰が」「どうした」という事実を記すのは当たり前のことですが、それで終わってしまえばそれは「歴史」ではなく単なる「事実の列挙」です。「歴史」とは過去の人々の営みを記し、その息吹きを伝えるもの。事実に+αを加えることで優れた史書となるんでしょうね。
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No.8504 - 2003/06/28(Sat) 00:03:32 |
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