| 最近蒼天の樊城戦を読み返しましたが、篭城した曹仁って、実は樊城を守り抜いたって言えない気がするのは私だけでしょうか? というのも、関羽は樊城を本気で落とそうとしてないような行動をしていたからなのですが、みなさんはどう思われますか?
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No.13019 - 2006/03/24(Fri) 23:00:58
| ☆ Re: 樊城の曹仁って? / 鳳卵 [東北] | | | | それについては僕も、大いに疑問に思っていたところでした。
イヤ、関羽の思惑は別として、曹仁の行動がどうにも腑に落ちないように思えます。つまり…
「アンタ、城を出ちゃイカンでしょ!?」
ということを言いたいワケなんですが。
たまたま呉軍が江陵や公安を落としたから関羽は南に帰ったわけですが、もしあのまま樊城攻囲戦が続いたとしたら、城の中で戦うのは満寵や臭いコンビだったワケです。いかなる場合であっても曹仁親子は城にとどまっていなければならなかったのではないかと思うのですけどね。
よしんば、曹泰には兵たちを船に乗せるという役目があるから仕方ないにしても、あの場面で曹仁が城の外に出てしまったのは、どうにも納得いきませんですね。
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No.13020 - 2006/03/28(Tue) 07:17:40 |
| ☆ 蒼天曹仁を弁護する(笑) / 陳寿 [関東] | | | | まず、蒼天関羽の戦略には
(1)樊城を締めあげ、囮(おとり)にすることで、魏の大軍を引きつける。これによって、劉備の率いる蜀軍本体が北へ侵攻するのを助ける。 (2)魏の援軍を出来る限り潰した後、西から北上する蜀軍本体に呼応して、北へ侵攻する。(当然、このとき樊城を落としておかないと中原へ進出できない)
という二つの目的が あるように思えます。よって樊城は作中、曹仁の台詞にもあるように、「中原の守備の要・絶対に落とされてはいけない城」です。戦略とは臨機応変、その場に応じて変えるもの。もし、曹仁が「ヘボ将」であれば、関羽は早々に樊城を潰し、別の手だてを考えたでしょう。現に「ヘボ将」が守っていた隣の襄陽は、関羽によって呆気なく陥落していますし。
樊城攻防戦のはじめ、関羽がたった一騎で城に乗りこみ、敵兵に「勧告」をする場面があります。城に乗りこんだものの、味方は後に続かず、関羽は樊城の守りが固いことを実感します。仮にその前の一騎打ちで、曹仁をCENSOREDいたとしても、「将が倒れても兵は崩れない魏軍」が相手、しかも城には名将・満寵も残っており、事態はあまり変わらなかったでしょう。
あのとき関羽は「樊城守備兵の士気は高く、曹仁は名将。城攻めには時間がかかる」と判断し、それならば、その「時間がかかる」を利用して「敵の援軍を芋づる式につり上げてやろう」という作戦を立てたのではないでしょうか。曹仁が名将であり、樊城の守りが固いことを逆手にとった作戦です。そして「自分一人で樊城を落とすのは無理」だとわかっていたからこそ、「勧告」だけしてさっさと樊城から出ていった(笑)。関羽が一騎打ちで曹仁を侮辱し、無謀な「敵城乗り込み」で魏軍の目を引きつけている間に、関羽軍は樊城の包囲をより強固なものにしています。これは、「樊城に一度猛攻をかける。しかし、城の守りが固い場合、無理をせずに包囲網を強化する」という関羽軍の二段構えの作戦を物語っており、同時に関羽が曹仁を「侮れない相手」と認識している証拠だと思います。
次に、「樊城蘇生作戦」における曹仁の行動ですが、私は曹仁が城を出てしまったことは間違いではないと思います。その理由は、
(1)城の守備だけなら、満寵だけでも十分と考えたから(史実でも満寵は防衛戦のスペシャリストです)。また、援軍が到着した以上、城の外からでも司令官として指揮はとれます。 (2)誰かが「関羽と一騎打ちしている徐晃」を救わねばならず、その困難かつ危険な任務が果たせるのは曹仁しかいなかったから。
とくに(2)は重要で、もし曹仁がいなかったら、徐晃は関羽に斬られていたかもしれません。司令官として城に残るのもひとつの選択ですが、「信頼に足る男」満寵に後を託し、「一番危険な任務=関羽の魔手から徐晃を救う」ことを選んだ曹仁は、やはり曹操が見込み、育てただけの男であると、私は思うのですが。
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No.13022 - 2006/03/28(Tue) 21:03:42 |
| ☆ Re: 樊城の曹仁って? / 黒助 [関東] | | | | 確かに樊城戦の序盤では、一騎打ちの見逃し、城内素通りなど関羽側の目的が「ただ最速で効率的に城を落とすこと」ではなく、「漢中王の軍に相応しい戦を示すこと」と「魏軍を出来うる限り引き付けること」にあったことで結果的に助かっている場面もありますよね。
ただ、「総大将同士の一騎打ちでは決着はつけない」、「城は傷つけない」など関羽軍側がわざと不利になる制約のもとで戦っていたとしても、陳寿さんも仰っている通り、関羽は決して樊城は落さないつもりではなく、「兵の半数をCENSOREDことで城を(無傷で)奪う」つもりで猛攻撃を仕掛けて来ているわけですので、その鬼神関羽率いる2万の包囲軍に4千でぎりぎりながら戦っている段階でやはり優れた将であると思います。
関羽は完全包囲を敷くだけではなく周囲の城と魏の急援軍を虱潰しに破り、かつ圧倒的気勢で樊城内の兵士に「漢中王への降伏」を迫ります。 さらに各地で劉備と関羽に呼応する反乱が乱発します。 加えてあの豪雨。 これらの状況を考えれば兵の士気を保つのは相当困難なことであったはずです。 そんな中、焦るどころか不敵に笑いながら満寵とともに兵に気焔を焚きつけ続けぎりぎりで徐晃の救援軍の到着が間に合うまで兵の士気を保ち続けた点は、自身の気ばかりが逸り、兵を思うままに指揮することを最も苦手としていた初期の頃を思うと、見事に成長したと評価していい点ではないでしょうか。
また、「樊城蘇生作戦」についてはその週の今週の蒼天でも触れましたが、徐晃の一騎打ちによる関羽の引き付けは明らかに事前の作戦段階では予定されていなかった危険を伴う策の徐晃自らの決断による決行です。 その徐晃の決断を言葉を交わすことなく瞬時に判断し、作戦を中断させることなく曹仁自らが動くことで救援に向かったあの場面も、曹仁、徐晃両将の『臨機応変の魏』の将としての本領を見るシーンとして陳寿さん同様高く評価してよいと考えます。
ただ、曹泰に西門を任せるシーンから推測するに、西門から船団までの城内兵の脱出こそはじめの作戦における曹仁の役割であったように思われます。 だとすると曹仁は徐晃の一騎打ちがなくとも初めからあの作戦で場外へ出るつもりであったということになります。 鳳卵さんの仰るようにこれは「防城作戦の将」としては疑問となるところですが…
この点に関しては、「桃園の夢」の回の趙儼のセリフから解決できないでしょうか?
「援軍というが樊城を救援するだけではない。ここで関羽を葬り去る戦いになった」
徐晃の援軍が到着し、関羽の狙いが「樊城を落とすこと」以上にあるのを見抜いた段階で彼らは既にここまで考えているわけです。 すなわち、それこそ鳳卵さんの仰る通りたまたま関羽が南に帰ったから関羽軍VS魏軍の戦はあそこで中断することになりましたが、そうでなければきっと彼らは「樊城蘇生作戦」以降は「樊城防衛」の戦ではなく、「関羽討伐」の戦を展開していたはずです。 戦の目的が既に「樊城防衛」以上のものとなっていることを考えれば総大将曹仁が城内に留まることの必然性も自然となくなるのではないでしょうか。
以上、蒼天の樊城攻防戦は関羽、曹仁の両軍がともに単に「城を攻める、守る」ということ越えたのスケールでの攻防を見せてくれている非常に見応えのあるものであったと思います。
いや、久しぶりに真剣に蒼天を語りました。
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No.13023 - 2006/03/29(Wed) 02:06:11 |
| ☆ Re: 樊城の曹仁って? / 我道 | | | | 鳳卵さん、陳寿さん、黒助さん返信まことに感謝です。 三方ともに三者三様の考察が聞けて、改めて、蒼天のハン城戦の奥深さに気付かされました。それにしてもハン城戦は、蒼天を序盤から彩ってきた武神関羽の最後の戦いであるだけでなく、ヘボ将から魏を代表する名将にステップアップする曹仁の集大成となる戦いって感じがしますね。できれば、もう一人の主役である徐晃が関羽を破る描写を見たかった気もしますけど。ところで、25巻で曹操が夏侯淵や曹仁に政から戦を考えてほしいと言っていましたが、ハン城戦を見る限り、曹仁自体は 政を意識してはいなかったようですよね。
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No.13024 - 2006/03/29(Wed) 10:00:18 |
| ☆ Re: 樊城の曹仁って? / RYU | | | 鳳卵さんお久しぶりです。
樊城における曹仁の判断については今思えば良くなかったと思いますし、やはり状況として満寵という信頼するに足る男が副将として控えており、魏軍の兵も戦慣れした精兵が多いし篭城して関羽隊と十分に戦える戦力だったと思います。篭城戦の問題として部隊の士気を高めるリーダーシップが曹仁の考えにあったんじゃないかと思いますが、関羽が徐晃を圧倒する、趙累が早々と殷署・朱蓋を倒すなど思いの外に関羽隊が強かったんじゃないでしょうか。
いずれにしても、あの局面における曹仁の行動は徐晃の苦戦を見て思わず突出してしまったという司令官としては失点ですが、仲間を助けようとした判断だと思います。
また、曹魏は陣容が厚いですから一度本陣に帰還して後方の本隊と連携を取ろうとした考えもあったんじゃないでしょうか?
陳寿さま初めまして。 劉備の進軍を援護するために荊州の重要拠点である襄陽を確保して、さらに樊城攻略に着手する。さらに後方では、孫権と交渉を持ちつつ有事に備える。兵站を補うために物質調達にも気を使うなど、関羽は一人で大きな仕事をいくつも抱えすぎたと思います。さらには、荊州戦略・対呉交渉・蜀の勝手口となる上庸近隣の部族懐柔の不備に対して、本隊を率いる劉備が呑気過ぎた事も注目すべき点だと思います。
黒助さんこんばんは。 やはり、曹魏の強みは磐石な基盤と組織力、それを最大限機能させる事のできる優秀な武将・文官達による所も大きいのでしょう。
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No.13025 - 2006/03/30(Thu) 00:01:25 |
| ☆ Re: 樊城の曹仁って? / 我道 | | | | またカキコします。RYUさん、こんばんわ。 RYUさんの考察で少々疑問に思ったのですが、徐晃の苦戦を見て曹仁が仲間を助けるために突出したというのが、私にはいまいち腑に落ちないんです。確かに序盤の関羽との一騎打ちをした場面の曹仁が突出したというなら理解できます。しかし、ハン城を蘇生させる作戦では、少なくとも私は曹仁は、仲間のためというよりもむしろ司令官としてあるいは戦の主として最善の行動を取ったと思います。確かに徐晃一人を助け出すなら、そう考えられるかもしれません。しかし、この作戦に曹仁は城の運命を賭けていました。あの作戦の中で徐晃が武神関羽を引き付けられるか否かで、作戦の成否は大いに変わると思われます。徐晃が斬られれば、余裕のできた関羽軍の反撃や関羽の人智を超えた武力、徐商の負傷や朱蓋の戦死を考えると作戦の成功は絶望的になるでしょうし、下手をすれば、肝心のハン城を奪われる可能性もあるでしょう。 しかし、徐晃はあえて関羽を単独で引き付ける戦法を取ります。曹仁はそれを城壁から眺め、ハン城の兵を脱出させることを息子に託し、自分は徐晃救出を行うことに変更します。 私はむしろここにこそ、曹仁の司令官としての真骨頂があると思います。関平の東門には満寵を当て、息子の曹泰がハン城の城兵脱出を成功させられると判断した曹仁の部下に対する信頼と統率力、一方で上記のように徐晃が死に作戦が失敗すればもはやハン城は守れないと判断し、徐晃救出に動いた決断力などはまさに曹仁が単なる将軍では なく、司令官としての資質の高さを証明してると私は思います。
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No.13027 - 2006/03/30(Thu) 01:12:18 |
| ☆ Re: 樊城の曹仁って? / RYU | | | 我道さま初めまして。
樊城戦については、本隊劉備の進軍を助けるという関羽の構想はともかくとして、事実上の魏蜀の主戦場は樊城だったと思います。これには許都に近いという地の利と、三国が隣接する荊州の地域性などが理由として考えられますし、曹操から首都の防衛線を任された曹仁としては樊城戦に掛ける意気込みは大きかったでしょう。
蒼天曹仁は江陵防衛、馬超の乱、樊城戦と有名な戦の多くに登場していますし、何気に重要な働きをしており魏を代表する名将に成長した人物だと思います。
そこで樊城戦ですが、確かに曹仁が一騎打ちに入ったのは司令官としての大局判断もあったと思いますが、徐晃の一騎打ちは城内に知られていなかったようですのでプラン上の必要性というよりも、臨機に下された判断であり直感的なものもあったんじゃないかと思います。
しかし、魏の司令官となった武将を見渡してみても、漢中戦における夏侯淵のような危うい蛮勇さを見せず、曹洪のような判断ミスを踏む事もなく、樊城戦の蒼天曹仁からは確かに緻密な戦略が感じられますね。
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No.13028 - 2006/03/30(Thu) 02:55:06 |
| ☆ Re: 樊城の曹仁って? / 馬玩 [関東] | | | | 我道さんの尻馬に乗って、初歩的な質問をしたいのですが、なんだって最重要拠点の樊城には4000人程度の兵しかいなかったのでしょう? 戦死者が出たことを勘定に入れても少なすぎると思うのですが・・・
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No.13029 - 2006/03/31(Fri) 10:55:14 |
| ☆ Re: 樊城の曹仁って? / 我道 | | | | 馬玩さん、こんにちは。 この質問、実は私も気になっていました。しかし、残念ながら、真相は未だ不明です。蒼天だけでなく正史でも、ハン城の兵は数千人程度だったようです。さて私の見解ですが、最大の要因は漢中の失陥による兵力の不足を補い長安・洛陽方面や許昌に攻めてくるであろう劉備軍との戦いに備えるために、大部分の兵は中央に戻されたからではないかと思います。さらに当時魏の国内でも不穏の動きがあったので、兵がいることで、それを監視できますから。 またハン城は蒼天では、平地の城ですが、実際はかなりの堅城だったようです。江陵で、圧倒的に戦力で劣っていたにも関わらず、一年以上も周喩の猛攻を凌いだ曹仁ですから、曹操も援軍の対応がしっかりあれば寡兵でも曹仁なら、十分関羽を撃退できると考えていたのではないかと私は思います。事実、ハン城戦でもウ禁の援軍は比較的早くやってきていますし。 もともと、篭城戦は守兵の数が多いと、どうしても兵糧の減少が早く指揮系統も乱れやすくなりますから、逆に守る側は極力兵が少ないほうが私は守りやすいと思います。あくまで篭城は援軍が来ることを前提にした戦略ですから、曹仁レベルの司令官なら、援軍が来る体制が確立しているなら城兵4千でも、あまり問題はなかったのではないかというのが私の見解です。
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No.13030 - 2006/03/31(Fri) 11:28:51 |
| ☆ Re: 樊城の曹仁って? / 鳳卵 [東北] | | | | なんか堰を切ったようにスレがのびてますね…
僕としては、良くドラマとかマンガとかに出てくる、“船の船長さん”をイメージしてたんですが。沈みゆく船の中で、 「私は、この船と運命を共にする!」 とかいうアレですね。 曹仁は樊城の主なんだから、最後まで城の中にいなきゃいけないだろうというイメージがあったので前回のレスのような書き方になってしまいました。
ところで馬玩さんへ。 4千というのは、僕は決して少ない人数だとは思いません。よく兵法では、城を囲む場合は10倍の兵力が要ると言われます。4千の城兵がいれば、それを落とすには4万の兵力が通常は必要なわけで、関羽軍の2万という数字は決して充分な数とは言えないと思うのです。 もちろん、率いるのが関羽ですから、普通の2万とは違うわけですが、いずれにしろ樊城の兵数は“少なすぎる”というほどではなかったように思います。 もちろん、我道さんの言われる理由も大きいでしょう。豊臣秀吉は城攻めが得意な将として有名ですが、鳥取城を攻める際には城中の兵糧を消費させるためにわざと開戦前に人数を城に追い込んだりしてますしね。
ところで、僕もあんまり人のことは言えないんですが、登場人物そのまんまのHNは、BBSマナーに反する恐れがあります。もう一ひねり加えた方がよろしかろうと存じます。
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No.13031 - 2006/04/01(Sat) 14:18:35 |
| ☆ Re: 樊城の曹仁って? / つね [関東] | | | | ごぶさたしてます。 ちょっと別スレでレスしたくなりました。
曹仁の樊城攻防戦については、基本的には最善を貫いていると思っています。ヘボ将であればとっくに落城、中原は火の海で劉備はすいすい長安へ、という展開だったのではないでしょうか。 ただし関羽の戦略に間違いがあったのではないかと思っています。以前も書いたのですが、関羽は樊城攻略に対し執拗に降伏を説いています。ここに、単なる戦略以上の政略的意義−曹操とは異なる劉備的な問いかけ−があったのではないでしょうか。ここが関羽が本気で樊城を落としていないように見えるところなんでしょう。結局、関羽の独りよがりになってしまった観がありますが。 ところで樊城の4000人ですが、昔、私は曹仁が合肥より率いたのは20000人(その362)だから、樊城も20000人と推測したことがあります。今から考えると最前線である襄陽に15000くらい詰めていて、要の樊城に曹仁自ら駐留していた可能性があるのではないかと思います。思いに反して襄陽があっさり落ちてしまったわけですが。
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No.13050 - 2006/04/05(Wed) 23:38:25 |
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