「しかし、今われわれの見た悪魔という人格的存在だって、別のしかるべき説明があるかもしれない。精神病理学的な理由で、納得できるかもしれない」 ロディは執拗にいった。奇蹟は、それを見て信じなければそれまでだ。「証拠を目のあたりにしても、それを信じなければそれまでさ」 と、ガブリエル・ドーソンがいった。人々が口々に同意の声をあげた。 ロディは旗色が悪くなったが、それでも懐疑心を捨て去る気は毛頭ないようであった。これが人間の厄介なところだ。人間が長年かけて築きあげた既成概念は、容易に崩れるものではない。長期間にわたり、親しく馴染んできて、居心地がよいとあれば、なおさらのことだ。常人の目を欺く巧妙なトリックはある。この目で奇蹟を見たのだから間違いはないというなら、Mr.マリックも奇蹟能力者ということになる。ロディの懐疑心がアイデンティティ・クライシスを恐れる保守性の発露だとしても、ワタシはそれを健全だと思う。むしろ、ガブリエル・ドーソンの真っ直ぐさこそ、危なっかしいものに思える。……とまあ、この場面については批判的に読んでいました。この頃の平井和正はリミッターをどこかに置き忘れていて、振り切ってしまっている。読者を「こっち側」に来させようと来させようと必死になってるなと。でも、物語の奥はさらに深かった。のちにガブリエル・ドーソンはジュディ・ギャザラとともに離反することになります。逆に身の危険をおしてウルフに協力し、付き合い続けたのはロディのほうでした。物質主義を否定して、心霊主義礼讃か!?――と思わせておいて、どっこいそちらの危うさもしっかり描く。このドンデン返しが心地良い。アダルトウルフはご承知のように主人公・犬神明の一人称で語られるわけですが、その場その時の彼の思惟が全てではありません。ときに事の顛末を述懐するように「おれはこのことを後悔することになるのだが」などと読者に告げることもある、神の声でもあります。このシーンでは、そうした神の声の補足は一切ありません。ですから、初めから筋書きを描いた上での意図的なフェイクだったのか、それともこの時点ではそんなことは考えておらず、筆が進むうちにそうなったのかはわかりません。まあ7:3で後者なんだろうなと思います。ここでは平井和正の筆に懸かった創作の神に、賛辞を贈っておくことにしましょう。ジュディ・ギャザラは犬神明が渡米するジェットで出逢ったスチュワデス(小説発表当時のまま、こう表記します)で、最初の“教え子”でした。それが縁となって、ロディ・イエイツら彼女の友人知人が求道者グループとして、犬神明のもとに集まります。まさに「巡り逢い」で、のちのジュディ、ガヴィの心変わりも含めて、小説『幻魔大戦』の萌芽を感じさせます。おそらくは、その後のアダルトウルフガイで語られるはずだった構想は、幻魔大戦へと受け継がれたのでしょう。だからといって、それで未完に終わっていることの不満が少しは解消されるというわけではないのですが。蛇足ですが、ロディ・イエイツの名前は第三部からなぜかエディ・イエイツに変わってしまいます。作者の頭のなかで名前が変わってしまったのだろうとは思うのですが、再刊された角川文庫版、ハルキ文庫版では、これに手が入ることはありませんでした。いずれを正とするのか存命中にお伺いし、訂正・統一する機会に、電子書籍版の刊行が間に合わなかったのは悔やまれます。さて、第二部の後半では、そのロディ(エディ)の調査によって、石崎郷子が紹介した超能力探偵・デヴィッド・ファーマーがオフィスを構えるスパイラル・ビルが、ほかならぬ“メトセラ・プロジェクト”の首魁、UTT社長・グリーンマンの悪魔崇拝の居城と知り、“デヴィルズ・タワー”に乗り込んでいきます。そこでアダルトウルフガイ史上屈指の大活劇が繰り広げられることになるのですが、それについては第三部の感想に譲ることにします。次回予告代わりに、NONノベル裏表紙にも記載された一節を引用して、しばしのお別れです。近いうちにまたお目にかかりましょう。この熱いボルテージを見よ! 血が滾る!「そこをどけ……」 おれは深呼吸してから宣告した。信じられないほどの熾烈な闘志が充満してくるのを感じていた。これまでのどんな敵にもおぼえたことのない満々たる闘志であった。まさに宿敵へ向けてのみ発揮されるポテンシャルの高い、たぎりたつ情動だ。「どかないと、胸板を蹴破っても通るぞ!」 言霊を引用