テレビアニメ『エイトマン』は最初、東映のVHSソフト(名作を全3巻にセレクト)をレンタルで視ました。その後、93年発売のLDボックス、99年発売開始のDVDを買ったものの、ほとんど目を通すことはありませんでした。(「買ったけど視ない」という、“DVDあるある”。)三度目の正直のブルーレイ版は、今度こそ全話を通して視たいと思っております。一日二話のペースで、目下着実に視聴を進めております。漫画原作『8マン』は、最初から主人公はスーパーロボットの「8マン」であり、表向きの職業である東探偵事務所を開いています。刑事であった東八郎が「8マン」になる経緯は、のちの回想で語られることになります。これに対しテレビアニメ『エイトマン』は、東八郎刑事が殺され、「8マン」として生まれ変わるプロセスを時系列で描いています。死んだことになっている東八郎刑事が、元の職場に復帰するわけにはいかず、東探偵事務所を開き、秘密裏に上司である田中課長の命で動くことになる。探偵事務所の秘書になるサチ子との出逢い、一郎くんが事務所に押しかけ居すわることも、順を追って描かれています。漫画では紙面の都合からコンパクトに描かざるを得なかった部分を、テレビアニメという長尺の機会を得て、あらためて省略抜きで描き直しているという印象を受けます。デーモン博士の登場も、原作では「ロボット007」の話に割り込むように描かれましたが、テレビアニメではシリーズを通しての宿敵のそれに相応しく、第8話 「超小型ミサイル」でまるまる一本使って描かれています。あらためて思い直したのは、デーモン博士は科学者である以前にソ連(アニメでは「ソラリア連邦」)の工作員であり、その任務のための小道具を自作するレベルでの科学者でしかないということです。ハッキリ云って科学者としては、谷博士には遠く及ばない。「8マン」を凌ぐマシンを自分で創ってみせろなどというのは、ちょっと買い被りが過ぎたと思います。■【改訂二版】ブルーレイと幻のエピソード 〜エイトマン/太陽衛星サンダーhttps://ameblo.jp/tkaname/entry-12815681624.htmlそもそもデーモン博士は任務として8マンを捕獲し、祖国に持ち帰ればよく、その手段はどうでもよかった。「科学者の誇り」などというのは、ワタシの勝手な思い込みであり、美化された幻想だったのかもしれません。度重なる失敗で任務を超えた私怨を抱き、「8マンのストーカー」と化したデーモン博士が、変な生き物の力を借りるのも(第33話「人工生命ヴァルカン」)、もはや自作ですらないソ連からかっぱらった新兵器で襲いかかるのも(第36話 「バイラス13号」)、ファン的にガッカリではあっても、それがこの男の実像と考えるべきなのでしょう。彼の憎しみがひたすら8マンにのみ向けられ、その開発者にして科学者・谷博士には向かわないのも、そう考えると合点がいきます。その意味で、エスパーと手を組む――というのも、全然アリだったと思います。辻真先先生は、『エイトマン』の世界観をよく理解しておられました。申し訳ないことを申し上げました。8マンが憎い、やつを倒したい、そのために手段は選ばない。それでも、「あと一歩のところで、8マンを倒せる」という段になると、「この素晴らしいロボットを破壊していいのか!?」という躊躇いが出てしまうのは、「科学者の良心」というよりは「屈折しまくった愛情」みたいなものを感じてしまいますね。まるで、フーテンの寅さん的アンピバレンツです。寅さんは毎度のようにマドンナに恋をし、口説きまくるのですが、そのくせ、マドンナが寅さんを好きになると、逃げ出してしまうというアレです。惚れっぽいし、口説くのは大好きでも、いざその恋が成就するとなると怖くなってしまう。ひとりの女に縛られ、「自由」でなくなってしまうことが。デーモン博士もきっと、8マンを倒す作戦を計画・実行するのは大好きでも、実は殺したくはないのでしょう。ルパン三世の宿敵・銭形警部のように、追っかけ続け、逃げられ続ける――というのが、彼にとってのシアワセであるような気がします。 言霊を引用
『8マンVSサイボーグ009』が完結しました。単行本は7月20日、上下二巻で発売されます。https://www.amazon.co.jp/dp/4253322115/数ある正義のヒーローVSものにありがちな、両者の顔を立て、フラストレーションが残る両リン(両者リングアウト)的ドロー対決が多いなか、完全に白黒をつけた決着ぶりに、惜しみない賛辞を贈ります。いや、あれは衝撃でした。もちろん、これには仕掛けがあります。その仕掛けがまた、ディープというか、マニアックというか、もう変態の域でね。感服します。つくづく、このひとはホンモノ。<ツイートしなかったつぶやき>https://twitter.com/JULY_MIRROR/status/1528440997180764160「破壊衛星グンニグル」は作者オリジナルらしい。このひとがやると、逐一元ネタがありそうで怖い。さすが七月せんせい、あんな誰も知らないテレビアニメのオリジナルエピソードを取り上げるなんて――と、もっともらしいデマを飛ばすと、ブルーレイの売上がちょっと増えたりして。https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0BVMF4XSW/「チャンピオンRED」の掲載を通しで読み返して、疑問に思ったことをふたつ。ひとつ目、第4話「死闘の果て」のひとコマ。デーモン博士の記憶に残る、この建物。その後物語がこれについて触れることはありませんでした。まさか伏線の未回収?実はこっちは元ネタがあって、原典『8マン』を読み返して、わかりました。あの施設だったんですね。おいおい、8マンと009の勝負で木っ端微塵に吹き飛んでしまったよ!?8マンファンとしては、お恥ずかしい。でも、あのロシアの天才科学者・デーモン博士ですら、ハッキリと思い出せなかったぐらいだから、しょうがないよね?疑問に思ったこと、ふたつ目。8マンと谷博士って、敵対関係になってたんじゃなかったっけ?これはワタシの勘違い。『8マン・インフィニティ』の話でした。記憶がゴッチャになってました。このあと、なんやかんやあるというわけですね。『8マン・インフィニティ』が「幻魔大戦」への道を辿れなかった無念を『幻魔大戦 Rebirth』が晴らしてくれた。『幻魔大戦 Rebirth』で見れなかった東丈VSルーフとジン――平井和正VS石森章太郎の願望を『8マンVSサイボーグ009』が叶えてくれた。単行本が出たら、ここでのおしゃべりをもう少し整理してブログに書けたらと思います。 言霊を引用
https://ameblo.jp/tkaname/entry-12786241896.html「ファン大通りの歩き方」の合間の「キツネダンス」のつもりが、語り倒してしまいました。実は正直なところを白状すれば、アカデミックなアートに傾倒する井上雄彦には、このひとも「老境」のステージに入ったのかなと思っていました。『SLAM DUNK』映画化、井上雄彦のコミットの報にも、いまさらかと。「新しいこと」をやり尽くしたクリエーターの、庵野秀明的過去の振り返りのようにしか思えず、さほどワクワク感はありませんでした。「ファン大通りの歩き方」はワタシの「人生の振り返り」そのもので、井上雄彦とは同世代の自分自身がそうであるにも関わらず、そのように思っていました。声優キャストの全員交替に至っては、テレビアニメには思い入れもあっただけに「大御所のワガママ」が出たか(笑)と。公開後の評判は絶賛の嵐でしたが、それでも不安でした。果たして映画を観たワタシの感想はブログをご覧いただくとして、井上雄彦がワタシにとりいまだ新鮮な驚きと感動を与えてくれるクリエーターであったことを、なによりも嬉しく思います。この映画は以後のスポ根アニメのエポックになり得ると思います。西野七瀬の『あさひなぐ』にも、同じような手法が使えたと思う。真面目に順を追って原作をトレースしたもんだから、練習試合でストーリーが終わってしまった。続編がないと収まりはつかないが、みんな大人になっていくし、卒業していくし、どうしようもない。実写化としては悪くなかっただけに惜しい。https://ameblo.jp/tkaname/entry-12549490353.html『THE FIRST SLAM DUNK』を評するブログや解説動画には、多くのことを教えていただきました。それらのサジェスチョンなしには、あれだけのことは語れませんでした。――母子家庭でアメリカ行きって、ちょっと無理あるんじゃね?――いや、リョータは井上雄彦が創設した「スラムダンク奨学金」を使って渡米したんだ。すごいな。そのメタ的解釈!? 言霊を引用
まずはブログに書くことほどでもない朝ドラネタから。そういうのほ「サラリーマン金太郎」並みの大企業でやることで、「IWAKURA」クラスの中小企業で「目安箱」ってどうなんでしょう? 普通に会議で意見を云いましょうよ? 筆跡でバレませんか? 「この字ぃ、山田さんとちゃう?」とかなりませんか?「ファン大通り(ストリート)の歩き方」三部作、どうにか脱稿に漕ぎ着けました。第一節発表から約ひと月、ようやく第二節を発表できます。最終節の発表までには、しばらく推敲にお時間をいただくとして、その前にどうしても書きたいものがあります。これでやっと『THE FIRST SLAM DUNK』に取り掛かれる。これを書きたくって書きたくって、しょうがないかったのです。https://ameblo.jp/tkaname/entry-12778704283.html 言霊を引用
寒いですね。なんですか、この寒さは? みなさま、お風邪などお召しになってはいませんか? ワタシはお陰様でこうして元気にやっております。年の瀬を迎える中、なんとか年内に「シン・“ガチャ文”考」三部作の第一部発表に漕ぎつけることができました。https://ameblo.jp/tkaname/entry-12761039987.html第一部そのものはずいぶん前に出来上がっていたのですが、第二部が書き上がるまで温存をしていまして遅くなりました。第二部にずいぶん時間がかかってしまいまして……。このひと月はほぼこれにかかり切りで、『舞い上がれ』のこともちょっと思うところはあったものの、朝ドラ日記を書く時間も気力もありませんでした。岩倉学生、それはいかんぞ。航空学校卒業とともにドラマから退場した吉川晃司に代わって、こう云ってあげたかったのですけどね。第二部発表は第三部の完成次第ということで。それまで推敲を重ね、磨きをかけてまいります。さすがに年明けになるでしょう。 言霊を引用
今回はブログ用に書いた「没企画」を披露したいと思います。没の理由は、涙ぐましく炎上系ユーチューバーとして一家を支える※実在の少年(とその環境)について、面白おかしく邪推を述べる――それをブログという目立つ場所ですることが憚られたからです。※さらに邪推を発展させれば、それこそ「学校なんて、行ってる暇はない」のかもしれない。本当は学校に行きたいのかもしれない。だとすれば、それこそ「おしん」です。強引にちょっとでも平井和正に絡めれば、作家志望の読者への返信に「作家稼業など、沙汰の限りです。止めなさい。」と云っていたのを思い出します。なんだかんだ、基本的なところは「まとも」だなと思います。『荒野の七人』のチャールズ・ブロンソン――家業の農夫を嫌がり、ガンマンに憧れ、仲間に入れてくれとせがむ青年に、親のあとを継げと叱る――みたいで、カッコいいじゃないですか。自称「少年革命家・ゆたぼん」も、もはや立派な社会問題。なんの注釈もなく、皆さま御存知の話題として扱って差し支えなさそうです。御存知でない方は、各自ググッてください。己れのシノギのために、子供を学校にも行かせず、金儲けの道具としてこき使う。……ワタシは現代の「おしん」だと、この問題を捉えています。この国の貧しさも、いよいよここまで来たかという、ひとつの表れとして。児童福祉法もなかった時代、「おしん」や花登筺脚本ドラマと異なるのは、口減らしの奉公働きではなく、ユーチューバー(しかも炎上系)であるという点です。そこが新しい、そこが令和的。少し前「水曜日のダウンタウン」で、「「『俺、迷惑系YouTuberになる』と子供から言われて『お前が選んだ道なら…』と応援スタンスをとる親などいない説」というのがあって、この番組の中でもなかなか秀逸でしたが、親が率先して子供にそれやらしてどうすんだと。ゆたぼんくん自身についてコメントすれば、例の「俺を超える13歳がおったら教えてな」発言、スケールでか目の勘違いも、大物の資質だと思います。そんなことを云ってるうちはまだまだ子供なんだが、実際子供なんだから仕方がないし、子供だからまだギリ赦される。これが二十五過ぎてこのままだったら、誰かの云うとおり「かすりもしない」と思いますが。根はいい子なのだと思う。父親想いの。自分の13歳の頃を振り返るに、父親と日本一周なんて考えられない。なんの罰ゲームかと。ワタシも学校はそれほど好きじゃなかったけど、父親と日本一周の罰ゲームよりは学校に行くほうを選ぶ。彼がもし、リバーズエ〇の小〇社長の子に生まれていたら、学校へ通い、成績もそこそこ良く、なおかつ父親の家業も手伝って「父ちゃん、基板からこんないっぱい金とれたで!」とか云ってる孝行息子に育っていたのではないだろうか。なんでこの親から、こんな子が生まれる? 運命とは残酷なものです。ゆたぼんくんがあの父親に似た、あの父親に似合いの不良息子であったなら、きっとこんな風になっていたのではないでしょうか。ユーチューバーなんぞ、お前がやれや! 選挙で供託金も溶かしやがって! あの三百万あったら、そもそもクラファンいらんやんけ! ほかの不登校のヤツのことなんて知るか! 勇気とか元気とか与えたかったら、お前が勝手に日本一周でも何週でもしてこいや! なんやったら、別に帰ってこんでもええわ! おれはやれへんからな!咥えタバコの煙をくゆらせ、夜の沖縄の繁華街へ消えるナカムラユタカ13歳……。そんな誰も知らない不良親子の喧嘩沙汰が、沖縄のどこかで誰も知らず繰り広げられていたのではないでしょうか。子供は普通、勉強なんて嫌いだ。ワタシもそうだ。だから、たまさか「夢」があれば、それを口実にして勉強するのを避けたがる。サッカーでプロになるねん、ヨーロッパリーグに行くねん、だから学校なんか行かんでもええねん。――それを寝言は寝て云え、現実を見ろ、と否定する親はちょっぴりヒドい。だが、そうかそうか、ならサッカーやってなさい、勉強なんてしなくていい、という親はもっとヒドい、遥かにヒドい。それは、野菜きらい、魚きらい、という子供の好き嫌いに親が云いなりに応じ、三度の食事にラーメンやスナック菓子を与え続けて育てるのに等しい。子供がよろこぶ虐待です。子供の子供らしい学校嫌いをいいことに、お前もおれのようになれとばかり、子供にとって最も堅実なカタギの道を自ら潰していく親はまともじゃない。あれは「毒親」ですよ。「宗教二世」と同列の「破落戸(ごろつき)二世」のその親です。ゆたぼんくんを持ち上げる文化人たち、彼らは一様にこのことには触れません。気付いてないのか、知って目をつぶっているのか……。所謂「親ガチャ」最悪の出目として、不良親父の子として生まれた、ゆたぼんくんの背負った星、運命は特殊で過酷なものだと思います。「俺を超える13歳がおったら教えてな」みたいな安いプライド、それがポッキリと折れ、自分がちっぽけなのだと思い知った時、彼の本当の成長、人生が始まる。そこから先のその道は、苦難に満ちているでしょう。けれど、それを乗り越えたとき、彼は生まれの非凡さに劣らない、真に非凡な人間へと成長を遂げるのではないでしょうか。多分に願望交じりの希望的憶測ですが、ワタシはこう思っています。近い将来、ゆたぼんくんは父・ユキヤ氏とは、決定的に衝突、離反することになるのではないか?ゆたぼんくんの性質の根本は、父・ユキヤ氏とは異なる。だからこそ、あの父親に懐き、日本一周の旅をともにできたとも云える。そんな、片鱗を感じるのです。彼らが「アンチ」と呼ぶ批判的コメントにも耳を傾ける必要があるんじゃないか。「アンチ」を煽るのはもうやめる。彼はそんなことを口にすることが、たまにあるのです。もちろん、あの父親が、そんな芽を摘まないはずがありません。あの父親の磁場の中にいて、強い影響下に晒され続けている以上、そんなつぶやきなど一時の気まぐれ、気の迷いとして、元の木阿弥へと帰すことになります。それでも、そんな関係がいつまでも続くはずもありません。彼もいつまでも子供のままではないのですから。親子の関係が破局を迎えたその時こそ、「暴露本」でも書いて、真のソロデビューです。ベストセラー間違いなし。その時のためにも、いまはしっかりと勉強をしておくべきだと思うのですがね。とにかく早いとこ、親離れをすることでしょう。自発的意志で。こんな親はダメだ。こんな家庭はイヤだ。自立したい。独立したい。自分でそう思わないことには始まらない。いまはユキヤ教のサティアンにいるようなものですからね。あの父親から引き離すことが最善だとわかっていても、彼本人がいまの環境に幸せを感じ、ここにいたいと望むなら、児相のような公権力でも、おそらく介入は困難でしょう。まして赤の他人に何ができる。「破落戸(ごろつき)二世」として生まれたひとりの少年の成長と人生――。この壮大な公開実験でありかつ、ドキュメンタリードラマを、所詮が赤の他人の傍観者として、この親子の物語を面白く、興味深く観察するしかありません。 言霊を引用
理想主義と現実主義の相克は、考えるほど「沼」にハマります。例として、例の教団の内幕を妄想してみます。お前らみたいなもんが、青臭い理想論語ってるんじゃない。遊びじゃないんだ。組織をもっと大きく、力をつけなきゃいけないんだ。そのためには金が要るんだ。お前らの足りない頭でヒリ出した戯言なんて要らんわ。兵隊は云われたことを云われたとおりに、ロボットみたいに働いてりゃいいんたよ。人を連れてこい。金を持ってこい。それで世界は救われるんだ!理想主義だけでは、理想そのものが実現できない。さりとて現実主義に偏り、魂を失くしては、土台から立ち腐れる。政府与党が政権を維持するために、「〇ね〇ね団」の力を借りて浸蝕される。お花畑の万年野党と、この国を売り渡す売国与党のどっちがマシだ? ほんにこの世は笑えぬ喜劇か、笑える悲劇か……?平井和正が「宗教」という活動・方法論に絶望したのも、こうした人間の性(さが)ではなかったでしょうか。ワタシが平井和正ファンとして「信者的」だとすれば、ものの考え方のかなりの部分で、ベースに平井和正があることです。だから、ちょっと導入のマクラとして、サラッと触れるだけのつもりが、ガッツリ語り倒してしまう(笑)。前菜にやたらと力の入ったコース料理みたいな。リンクした読者日記も、これを機会に手直ししました。真面目に追っていったら、半日潰せます。せっかくですので、お読みいただけたら嬉しいです。ぜひ読書日記の「沼」にハマってください。■「善」と「悪」は非対称https://ameblo.jp/tkaname/entry-12766014759.html口の悪いところは、何卒ご容赦の程を。ワタシは「神がかり」に拒否反応を示しがち、それでもファンをやめられない読者に向けて、その人達に振り向いてほしくて書いてます。ワタシ自身、いわゆるスピリチュアリズムは苦手ですし、さほど興味もありません。それでもなお、そんなワタシが感じる、強烈な魅力とは何なのか。そこをお伝えできたらと思っています。喩えるなら「おしん」は小林綾子だけじゃない。田中裕子パートも、乙羽信子パートもあるよ、そっちも見てよ、こんなに面白いんだよと。天使が実在するとは、さすがに思えない。それっぽいものがあるとしても、それは我々にわかりやすいように擬人化かつ単純化されたものでしょう。あんな清く正しい高貴な存在が、我々人類を見守り、導いてくださる……? そりゃねえわ、そりゃファンタジーだわとワタシは思います。でも、それを人類ダメ小説のあの平井和正が、マジで、ガチで、信じちゃった一時期がある。天使が受肉した(――と、当時の平井和正は信じた)女性カリスマに、ゾッコン崇拝を捧げたのです。それについては語り尽くされ、いまさらワタシが付け加えることはありません。ワタシが云いたのは、よくぞこの「宗教」とさらに「アイドル」の要素まで加味された、「甘やかな迷路」から脱出、更生してくださった。さすがは平井和正だという賞讃です。それは作家として、他の誰も手にしていない、あまりにも貴重な経験だったはずです。……内村くん、きみは大丈夫か?後期アダルトウルフガイと幻魔大戦は、「天使の時代」として一括りにされがちです。しかし、『人狼天使』をあのまま継続せず、「幻魔大戦」にチェンジしたそのことの意味は、ことのほか大きかったのではないかと思っています。一義的な理由としては、作者の世界観・宗教観を表現するには、一人称・単独ヒーローのアダルトウルフガイでは、あまりにも窮屈だったとのではと考えることはできます。しかし、それは表層であって、ことの深層は、心酔していた女性カリスマに深刻な疑念を抱かざるを得なくなった、そしてアダルトウルフガイはあまりにも彼女の影響を受け過ぎた――そんな忸怩たる想いがあったのではないか? そのような推測もできます。それでも、幻魔大戦でさえも、その強い影響下にあったことは否めません。「宇宙意識」なんて、装いをSFっぽくしただけで、根本は「天使」と変わりません。事実、女性カリスマにハッキリと批判の旗色を鮮明にするのは、(第二次)「幻魔大戦」の筆を置いた、そのずっとずっとあとになってのことです。信じたい。でも信じられない。疑わざるを得ない。そんな「迷い」「惑い」のなかで、平井和正は「幻魔大戦」を書いた。それは井沢郁江の人物像に、ひいてはGENKENの迷走として、投影されることになります。平井和正は答えの出ない問いに、遮二無二突っ込み、ぶつかっていきました。未完は必然、座礁は必定。でも、そこが凄い。だから、凄い。もし仮に、平井和正があのまま「幻魔大戦」を書き続けていたら、無事には済まなかったと思います。それは別にオカルティックな理由など持ち出すまでもなく、「発狂」していたと思います。自然の摂理に「善」も「悪」もありません。地震も起これば、津波も来る、伝染病も蔓延するのが「自然」です。ヒューマニズムのモノサシで神様を測ったら、神様は「反社会的勢力」です(笑)。「善」も「悪」も、人間が考え出した概念です。自分ひとりが「悪」をなせば、「楽」に「得」ができるでしょう。けれども、それでみんなが「悪」をなせば、片時も気を休めることもできず、自分が弱ければひどい目に遭わされる、そんな地獄になってしまう。だから、みんなで「善」でいきましょう。というのが、この世のモラルの要諦です。それでも抜け駆けをして「悪」をなす、個人・団体・国家はあとを絶たず、浮世は憂いに満ちています。それを「神様」になんとかしてもらおうというのは都合の良いファンタジーだし、それってあなたの信仰ですよねワラワラワラ、です。そうした人の世の問題は、所詮が人がなんとかするしかない。正義のヒーローが見果てぬファンタジーでしかないように、神様もファンタジーでしかありません。いや、それはどこかにおわすであろうとは、ワタシは思います。でもそれはフロイのような、優しい慈愛の温もりで包んでくれる、そんなヒューマンなお方ではない。むしろ美輪明宏つながりで云えば、「もののけ姫」の「黙れ小僧!」、巨躯のヤマイヌ・モロのような、迂闊に近付いたらガブッといかれる、そんな存在ではないかと。人とはそれこそ全く違う次元に存在して、活動していて、人類のことなんて別に気にもしてないんじゃないかと思います。まあ、あんまり期待しても、しょうがないでしょう。「宗教」の概念から離れた、平井和正が思う「神の世」――神霊世界の幽玄ができるだけ忠実に描かれるようになるのは、「ポスト・天使の時代」である『地球樹の女神』以降の作品を待つことになります。だからこそ、なんだかよくわからない、リアクションに困る(笑)、誰もまともに語りたがらない……。でも、そういうところがまた、「冒険」し甲斐のある世界じゃないですか。いつ、旅に出られるんでしょうね?(笑)だいたい、こういうのを書いてるのがいけない。ほんの息抜きのつもりだったんですけどね。ぼくの悪い癖。 言霊を引用
まずは、『ONE PIECE FILM RED』から。ワンピース映画を初めて劇場で観ました。スクリーンで観てよかったですよ、この変則定石破りな作品を。映像とAdoちゃんの歌で、心地よくトリップしました。中毒性があって、リピートしたくなるぐらい。興行的にはヒットしているようですが、むべなるかな。あくまでワタシの感想であって、ひとにより評価は二分すると思いますが。喩えるなら「アナ雪」の「レリゴ〜♪」が最初から最後まで延々連続する感じ?これをご家庭のテレビやPCで観ると……気持ち良さが大幅に削られた上に、ONE PIECE史上空前のストーリー欠如の作品ってことになる気がします。「土曜プレミアム」の地上波放映をお待ちの方は、どうか覚えておいてください。『ちむどんどん』は嫌いでも、黒島ちゃんのことは嫌いにならないでください。続いて、そう云うしかない今期朝ドラ『ちむどんどん』。ワタシはこき下ろしタイプのネガティブ批評はしない主義ですが、このドラマの何がダメなのかは、語るに値するテーマのように思えてきました。でも、それをブログでキチンとやろうと思ったら、オンエアを通りいっぺん観るだけでは済まされない。あれを何度も観直し注視する? いくら黒島ちゃんが見目麗しくとも、そんな苦行には耐えられない。2016年版ドラマ『時をかける少女』も『アシガール』もリタイヤした根性なしなので。なのでスキだらけのおしゃべりをこの場でしたいと思います。あのドラマが正直しんどいのは、ドラマ発生源としての登場人物の間違いや欠点が、愛すべき魅力になってないどころか、「普通に不愉快」でしかないところに尽きる気がします。母・優子(=仲間由紀恵)のお人好し、息子への信頼ぶりも、あそこまでいくともはや毒親。料理人の先輩・矢作(=井之脇海)が、またヒドイ。元のイタリア料理店を職場放棄同然に辞めたかと思えば、店の権利書を盗む明白な犯罪の加害者となり、挙げ句路頭に迷っていたのを暢子(=黒島結菜)に救われ、全てを水に流して彼女がオープンする沖縄料理店に雇ってくれたというのに、超のつく横柄な態度。そういうところを挙げていったら、キリがない。朝ドラ史に残るまれに見る問題作。欠かさず視聴し抜いたら、歴史の目撃者です。前作・ジョー(=オダギリジョー)の感想聞いてみたいわ。「ひなた、これはアカンぞ」でも、黒島ちゃんのことは嫌いにならないでください。 言霊を引用
平井和正の云う「言霊」を素直に解釈すれば、まるで作者の耳元で素晴らしいアイデアでも囁いてくれる物語の精霊的なものを想像してしまいます。ですがほんとうのところは、そうした自分の外側からやって来るものではなく、自分の内側から生じるものではないかと思います。これは珍しい現象では決してなく、ワタシにもしばしば経験があります。なにも創作に限ったことではなく、ブログの文章を書いていても、それまで考えてもいなかったインスピレーションが訪れることがあるのです。たとえば、リュウ版『幻魔大戦』の読書日記にしても、作家・松平右瑠正のひと幕について、前のバージョンでは直感の赴くままに「奇跡が起きた」と多少ムリのある解釈をしていました。今回はこれを「プロセスをすっ飛ばして、結末を描いた」と、より現実的かつ、みなさんにご納得いただける表現にすることができました。云ってることは同じなんですけどね。これなども、思いついたから再発表したわけではなく、再掲することは最初に決めており、その過程でこのひらめきが訪れたのです。さらに「ルーフとジンのコスチューム問題」も加わり、単に再掲ではない、「新版」を冠したバージョンに様変わりすることになりました。■前バージョン 主人公は幻魔のプリンス!? 石ノ森ソロの異色作〜リュウ掲載版『幻魔大戦』https://ameblo.jp/tkaname/entry-12613598545.html■新バージョン 【新版】主人公は幻魔のプリンス!? 石ノ森ソロの異色作〜リュウ掲載版『幻魔大戦』https://ameblo.jp/tkaname/entry-12736937386.html三年前、マガジン版『幻魔大戦』の読書日記に着手したものの、後半パートについて、どうしても納得のいくテキストを書くことができませんでした。「宿題」を残したまま、その後、長期入院をしたことなどもあり、放置していたマガジン版『幻魔大戦』後半パートの読書日記の、ひとまずの完成を見たのが約一カ月前。それで、バラバラに連載したきりの『幻魔大戦 Rebirth』読書日記の再編集・完成版を含む、「コミック幻魔大戦月間」を始めました。それでも、前述のように過去のテキストをちょっと化粧直しして再アップ、というだけでば済まず、いずれも大幅な手直し、バージョンアップをしないわけにはいきませんでした。今回の書き下ろし、マガジン版『幻魔大戦』後半パートの読書日記も、手がかかりました。書き上がったと思ったら、それに漠然と覚える違和感。さらに追加で新たな着想も訪れ、それらを修正し、盛り込むのに、構成を根本から練り直さないといけない。その繰り返しでした。麻雀で云えばせっかくテンパイしているのに、それを崩して、もっと高い役づくりに挑む。そんな感じです。お蔭で「九蓮宝燈」とは云えませんが、ワタシなりに、いまのワタシとしては最上の仕事ができたと思います。■【完成版】シリーズの原点にして最高峰〜少年マガジン掲載版『幻魔大戦』https://ameblo.jp/tkaname/entry-12736886009.htmlさすがに完全燃焼しましたので、しばらくはチャージにつとめたいと思います。もういくつ寝るとで『8マンVSサイボーグ009』のチャンピオンRED掲載号も発売されますし。予告ではなく、あくまでも願望であることをお断りしておきますが、小説『幻魔大戦』1〜3巻について――「第二次幻魔大戦再読の旅」ではすっ飛ばしてしまいましたし、実際読むことそのものをパスしていました。――はあらためて語りたい、語らなければと思い始めています。ワタシだけではないと思いますが、ワタシにとっては「しこり」なんですよ。小説『幻魔大戦』の、あの物語として不細工なシフトチェンジは。今回の読書日記で、東丈の心霊治療のごとく、ワタシの中の黒いボールはずいぶんと小さくなった(笑)と思いますが、まだまだ完治はしていません。やはり、直接本丸に乗り込まなければ。同様のアダルトウルフガイの不細工なシフトチェンジ、「人狼白書問題」については、ワタシなりに答えを出したつもりです。■『人狼白書』をもう一度をさらにもう一度https://ameblo.jp/tkaname/entry-12722135167.htmlこういうのは、ほかの作品に喩えるとわかりやすいのですが(そのかわり、知らないひとには全く伝わらない)、福本伸行の『アカギ』という作品は、全体を通して見れば、神域の男・赤木しげると魔王・鷲巣巌の長い長い戦いの物語でした。鷲巣が莫大な財産を麻雀勝負で喪い、ついにはアカギと同じ己れの血液を賭け、それも大量に喪って、冥界をさまよう。地獄に堕ちた鷲巣が、獄卒の鬼たち、閻魔大王相手に、反乱を巻き起こす(笑)。それに用した連載期間は優に1年を超え、どこへゆく? どうなってしまうんだ、この漫画? と読者をそれこそ「ザワザワ」させた、この展開。実にワタシ好みです(笑)。何が云いたいかというと、対鷲巣以前の数巻は、導入部であったということです。始めからアカギVS鷲巣をやるわけにはいきません。『天』で敵役として登場し、やがて主人公の頼もしい味方となり、自死によって『天』という物語の幕を引く老いた雀士・赤木しげる。彼の青少年期を描いたスピンオフが『アカギ』です。彼がいかに麻雀の天才であるか、勝負にとことん真剣であり、それはもはや狂気であって、己れの命を賭けることさえ厭わないギャンブルの鬼。主人公・アカギがそんな怪物だからこそ、もう一方の怪物である鷲巣巌と伍して戦うことができる。そこに至るプロセスとして、そんなアカギの人物像、怪物性を描く必要がありました。それが冒頭数巻のエピソードです。『人狼戦線』までの一話完結・連作形式の数巻についても、同じように導入部だったと考えることはできます。それまでの一連のシリーズの流れがあるからこそ、犬神明の正体が明かされることの衝撃がある。新作では、これができません。『人狼白書』からが本領、本番が始まったはずでしたが、全36巻、二十年以上続き、完結までした『アカギ』と違い、長くは続きませんでした。作者の創作衝動のバトンは、「幻魔大戦」に渡されたからです。平井和正はそれで良かったとしても、アダルトウルフガイという物語にとって、それは最たる不幸・悲運でした。平井和正というひとはエッセイなどで、マンネリを厭う作家として知られています。ですが、そのくせ、創った作品世界と生んだキャラクターには異常な愛着があって、普通の作家は作品ごとに新たに舞台と登場人物を設定するのですが、それをせず「シリーズ」にしてしまう。これ、始末が悪いですよ。マンネリが嫌いなくせして、シリーズを書きたがる。高橋留美子のように、いい意味でのマンネリズムでシリーズを続ける。普通の作家のように、一作ごとに舞台とキャラを分ける。どっちかにしてくれれば、読者はもっとハッピーになれたのに。お蔭で苦労させられるわけですよ(笑)。小説家であるよりも、漫画家である。仕事ぶりといい、作品への向き合い方といい。文筆の漫画家。そういう云い方はできますが、それにしても漫画家以上に作品とキャラへの愛が強過ぎる。キャラへの自己投影が激し過ぎ、結果、自己の変化がキャラ・作品の変化に直結する。そもそもは「小説化」するつもりで始めた小説『幻魔大戦』を、よりによって原典のアンチテーゼにしてしまいますかね? お蔭でどれほどの読者を不幸に陥れたことか。■石川賢インタビュー記事より――そもそも、あの話は『幻魔大戦』を見てて、僕は幻魔を見たかったのにいつまで経っても幻魔が出てこないわけですよ(笑)。じゃあ自分で『幻魔大戦』のような漫画を書いて、ちゃんとやってみたいなっていう気持ちで始めたんです」https://twitter.com/lovesummerI/status/1524738854820802560まるで極悪人の重犯罪者の弁護を引き受けた弁護士の心境ですよ(笑)。それでもワタシは、それをやろうと思います。それを責める、あるいは忘れ去るのではなく、救う道をワタシは選んだからです。自分自身の「しこり」の寛解を目指す方法論として。こうして自分の「しこり」に向き合う、それに取り組めるというのは、恵まれているし、贅沢なことです。弘田さんは「成熟を拒否する作家」として、平井和正の人間性に切り込んでいます。ワタシには無い発想、できないアプローチです。ワタシはワタシにできることをワタシなりにやるしかありません。アダルトウルフガイの己れの「しこり」は解きほぐしました。次は、小説『幻魔大戦』の番だという気がしています。 言霊を引用
コミック幻魔大戦月間第二弾、リュウ版『幻魔大戦』の読書日記を公開しました。■【新版】主人公は幻魔のプリンス!? 石ノ森ソロの異色作〜リュウ掲載版『幻魔大戦』https://ameblo.jp/tkaname/entry-12736937386.html化粧直しをして再アップするだけのつもりでしたが、いざいま読み直してみると、そのままというわけにはいきませんでした。特に「松平右瑠正」の項は、わからないことをムリに結論を出すことはない、と思いました。そう思うと不思議なもので、プロセスを飛ばして結末を描いたのかなと気付き、自分でもストンと胸落ちしました。こうした考えひとつとっても変わっていくし、進歩もするし、「完成」することはないのだなと思います。いま発表したものも、ものの三年もすれば、「いや、そうじゃない」と思うかもしれません。「ルーフとジンのコスチューム問題」にも追加で触れました。見過ごされがちですが、これって重要な問題ではないかと思います。 言霊を引用