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記事No.1476に関するスレッドです


『人狼白書』をもう一度 - Name: カナメ No.1476 - 2017/03/04(Sat) 00:20:53
≪天使や悪魔が出てきたからって、なにを戸惑っているんだ? よく考えてみろ。この物語の主人公は狼男なのだぞ。≫
ワタシがまだ平井和正に対して、全肯定の一途な崇拝者だった頃、後期アダルトウルフガイへの批判に対して、このようにうそぶいていたことを思い出します。一途なファンとして、ムリしてたんだな(笑)といまは思います。だって、あらためて読み返したら、あの最終章「暗黒世界の対決」には、違和感ハンパなかったですもん(笑)。ウルフガイであれはやっちゃいかんと思いますよ。

物語にはそれぞれ、ついていいウソの範囲というものがあります。
たとえば、木村拓哉の医者もののドラマに、狼男が出てくることは許されません。担ぎ込まれた絶望的な重症患者が奇跡的な回復を見せ、こんな告白をする。「信じてもらえないかもしれないけど、実はおれ、狼男なんです」→「君の身体を調べさせてほしい!」……この脚本家、気でも狂ったか? と思われるでしょう。
一方で、『狼男だよ』という作品があります。――白状しよう。実をいうとおれは人間じゃない。おれは人狼なのだ。……この一節を読んで、狼男なんているわけないだろ、この作者、頭おかしいんじゃないか? とは普通思いません。前者と後者の物語では、ついていいウソの範囲が異なるからです。

宝くじで高額当選をすることは、私たちの日常レベルでは、ほぼあり得ない話です。でも、世間のどこかには、そういう人もいる、それもまた現実です。
だから、「一億円当たってしまった! どうしよう!?」……というように、初めからそのレアな人物にスポットを当てた、レアな人物の物語というのはアリです。
でも、多額の借金を背負った男の物語というのがあって、こんな結末を迎えたとしたらどうでしょう。「一億円当たらないかなぁ」→「当たったあ!」→めでたしめでたし……めでたいのはお前(作者)のアタマじゃい! ということになります。
同じ宝くじの高額当選という出来事であっても、前者は物語の設定であり前提、それに対し後者は噴飯もののご都合主義となってしまうのです。

当たり前の話です。当たり前すぎて、ことさらこのように考えたり論じたりされることもちょっとないぐらい。でも、このことを整理して頭に置いておくことで、『人狼白書』に感じる違和感の正体も見えてきます。
物語でついていいウソの範囲。それは原則、物語の最初に唯一もしくは最大限のものとして設定されます。ウルフガイの場合、狼人間の存在が許容されるウソのリミットということになります。
ですから、ライオン・ヘッドのような呪術師、ラッキー・チャンスのような超能力者、大滝雷太のような別種の不死身人間、このレベルであれば、許容の範囲内になります。ところが、天使や悪魔となってくると、これはもうこれまでになかった宗教観という異物であって、初期設定を逸脱しています。まさに「話が違う」のです。
ここまで作者自身の人生観・世界観が変わり、作品の性格が変わるならば、初めから全く別の新作でやるべきでした。であれば、読者の好みの違いはあれ、何の問題もありませんでした。なぜそうしなかったのか、なぜ既存の作品の続きで新たなステージを表現しなければならなかったのか? 平井和正の作品論・作家論は、結局そこにブチ当たることになります。その後の“幻魔大戦”も過去の漫画、そして『新幻魔大戦』を発展させたもので、完全オリジナルの新作ではありませんでした。

 彼女は、つねにおれを教え導く役割を受け持っている“師”だったのである。現象界のことではない。おれは肉に埋もれた存在、狼男として、小学生時分から“師”を持った経験はなかった。永遠の転生輪廻のプロセスにおける不滅の霊魂としてのおれ――本質的な霊存在のおれにとっての“師”なのだ。その点をうまく理解してもらえただろうか?

それを理解できるかどうかは、読者がどれだけ作者の宗教観を(あらかじめ)理解しているかにかかっていると云っていいでしょう。ワタシのような、その後の作品から入った、いわゆる「神がかり」後の平井和正のステージをよく知った読者はいい。けれども、宗教に馴染みがあるわけでもない、オンタイムで読んできた読者からすれば、とうてい理解はおぼつかないでしょう。知識ゼロ、心得の無い読者に対して、説明不足の感は否めません。たとえ相手が天使だろうと、犬神明が拝跪するなんてありえない! そんな平岡正明に代表される読者の反応は、ごく当然のものだろうと思います。

なぜ、こんなことになってしまうのか。それはおそらく、作者のなかでこれが「ウソ」ではないからでしょう。ついていいウソの範囲どころではない、ウソじゃないんですよ、平井和正にとっては。本当なんだから、仕方がない。CIAやKGBが現実にあるように、天使も悪魔も現実にいる。現実を物語に持ち込んで、何の不都合があるのだと。
――天使はいるんですよ、犬神明のような物質世界のヒエラルキーに縛られない者も自然に跪いてしまう、真に尊い存在なんですよ。きみだって天使が眼の前に現れたら、きっとそうなる。たとえば、磁石は鉄を引きつけるよね。それは事実なんだよ。それを知らないのは、ただの無知ですよ。そんな読者のために、その原理を一から説明しなきゃいけないのかい? ――平井和正の心の声を憶測すると、そんな感じではないかと思います。なんだか、ワタシの想像上の平井和正に、ワタシ自身が説得されそうな気がしてきました。

作者と読者の「常識」のギャップ、これを埋めないままに、それまで築き上げてきたアダルトウルフガイの世界に作者の新境地を持ち込むことで、この作品は一種異様な問題作となりました。それでもワタシは、そのことでこの物語を単純に否定することはできません。それはワタシが作者の宗教観に理解があるからではありません。というよりもですね、この程度のツッコミどころは、あえて云おう、些事であると。

「わかっているさ。なによりも大事な家庭がなかったというのだろう。だが、おれにはもともとなにもなかった。家庭どころか、両親の顔もろくにおぼえていない。孤児だったんだ。四歳のころから、なにもかも自分で面倒を見なければならなかった。それがどんなものかわかるか? 他人に借りを作るのだけは我慢できなかった。誇りだけがおれを支えていたんだ。きみより惨めな境遇にいる人間は山ほどいる。そうした人々のことをきみは考えたことはあるまい。きみの目はなにも見ようとしない。自分のこと以外、念頭にないからだ。歪んだ心の鏡に映った自分の顔しか見ていないからだ。だから、きみは、自分の分け前がいかに大きいものかわからない」

これですよ。この雷に撃たれるような、ビリビリとシビれるこの科白ときたら! むろん、この矢島絵理子との応酬は、結果的に彼女を傷つけ、怨みを買い、敵対を決定的にしてしまいます。残酷で思慮を欠いた言葉のしもとであったのは間違いありません。だけど、やっぱりカッコいいんですよ、シビれるんですよ。物語のそこかしこに抹香くさいセンテンスは散りばめられていても、こういうところは我らがウルフの兄貴ですよ。こんなオッサンに兄貴呼ばわりされたくないって? いいなあ、小説のひとは、歳をとらなくて。
とまれ、皆さんもよくご承知のように、平井和正の問題作はこの『人狼白書』が唯一でもなければ、最大でもありません。読者を悩ます“言霊使い”平井和正の問題作メーカーの道のりが、ここから始まるのです。


Re: 『人狼白書』をもう一度 - Name: 弘田幸治 No.1477 - 2017/03/05(Sun) 23:24:12
 幻魔大戦→ウルフガイ読者の意見が聞けて楽しかったです。そうした読書体験にも関わらず、冷静な読解はさすがですね。
 やはり『人狼白書』は無理がありますよ。仰るとおり“別作品”として書かれるべきでした。

 しかしその“別作品”が存在する、というのが、この頃の平井和正でした。そう『真幻魔大戦』ですね。
 アダルトウルフガイ→真幻魔大戦を読んだ身としては、「ああ、平井さん、うまくやったなー」という感想をもちました。不死身の男犬神明には非物質的な力は必要ありませんが(むしろ作品の面白さとしては邪魔ですが)、タフガイでも何でもない小柄な東丈がじつは絶大な霊力を秘めているかもしれない、という物語は、『人狼白書』以後のシリーズの“反省”として感心したところでした。
 また『人狼白書』以後のシリーズに幻滅した読者へのプレゼントとでもいうべきオカルト要素抜きの『若き狼の肖像』を書いたことも好感が持てました。

 この頃の平井和正は明らかに「書き分け」ができていたのだと思います。世界観の変化なら説明がつかず、やはり世界設定との混同があったのではないかと思っています。

 笠井潔『ヴァンパイヤー戦争』はアダルトウルフガイへのオマージュとでもいうべき作品ですが、この作品ははじめから活劇→オカルトという構造になっていて、『人狼白書』以後のシリーズの変質に肯定的な読者もいたことをうかがわせます。
 カルロ・ギンズブルグ『闇の歴史』では、狼に変身した戦士が、冥界の魔女/妖術師を討ち取って、その年の豊穣をもたらす、という“異端”が紹介されていました。どこかでみた構図ですね(笑)。

 『人狼白書』以後のシリーズの変質は「失敗」だったと思うのですが、それでもさすがの平井和正だな、と身贔屓込みで思ってしまうところです。


Re: 『人狼白書』をもう一度 - Name: keep9 No.1478 - 2017/03/10(Fri) 17:58:07
後期平井和正の中での「完全オリジナルの新作」であった「地球樹の女神」・「ボヘミアンガラス・ストリート」及び「アブダクション」をどう位置付けていくかという問題が残りますが、……残りはするんですが、ざっくり言ってしまうとこの3作品、「世界」とか「宇宙」とかそのものをハンドリングしちゃう作品であったので、ついていい嘘の上限がほぼない、という考え方もできるかなと。上限がないと逆に、微妙な制約のもとにある「幻魔大戦」「ウルフガイ」と比べて完結が導き出し易かったということかもしれません。

特撮ヒーロー物である「ウルトラマン」や「仮面ライダー」が2010年あたりから多元宇宙を当然の前提とした世界観に移行していったこと、世界の異なるヒーローを共演させる仕掛けとしての多元宇宙の「活用」が進んでいったこと、そもそも「世界観」なんて言葉が普通の視聴者読者にも一般化していったプロセスは、SFガジェットの浸透(と拡散?)の実例としても興味深いものがあります。


Re: 『人狼白書』をもう一度 - Name: 弘田幸治 No.1479 - 2017/03/10(Fri) 23:23:56
 keep9さま。

 後期平井和正作品で読んでいるのは『地球樹の女神』と『ボヘミアンガラス・ストリート』だけなんですが、仰るとおり“「世界」とか「宇宙」とかそのものをハンドリングしちゃう作品”なんでよね。主人公はいわば“神”であって、“神のごとき”覚醒した東丈を失踪せざるをえなかった『真幻魔大戦』と違うところですね。
 ただそのぶん、主人公の“敵”が矮小化してしまったきらいがあったと思います。作品世界の“神”には誰もかないませんからね。

 作劇上、幻魔という“便利すぎる敵”を登場させてしまったこともその後の平井和正を祟ったのかもしれません。いつまでも戦える敵ですから、主人公勢のドラマに集中できる。

 特撮ヒーロー物については全く無知ですので、勘違いしてしまっている可能性大ですが、多元宇宙については「世界設定」の分野かなという気がします。
 世界観を“気にしない”作品といえば手塚治虫の一連のスターシステムなんてそうでしたね。ただ劇画革命以後はそれも鳴りを潜めるわけですが。

 俺の推測が正しければ、オールスター作品の復権は、世界観を“気にしない”客層の復権でもあります。時代は寄せる波引く波のようなものなのかもしれないと感じました。


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