62981

良太掲示板

何でもお気軽に書いていってくださいね!

HOME | お知らせ(3/8) | 記事検索 | 携帯用URL | フィード | ヘルプ | 環境設定
清雲寺しだれ桜 / 良太
今日は清雲寺しだれ桜を見てきました。
2026年3月27日(金)

No.5976 - 2026/03/27(Fri) 20:24:46
真田幸村 児童書 / 良太
「真田幸村」 砂田弘著 講談社火の鳥伝記文庫 読破

真田昌幸が父で、その子、兄の真田信幸で弟が真田幸村。
真田は長野の上田から群馬の沼田あたりを治めていた。
まわりを大国の武田や上杉や北条に囲まれていたので苦労した。
武田についたり上杉についたり北条についたりみさかいがなかった。
信長が武田を滅ぼすとそこへ徳川家康が入ってきた。
家康は二度上田に攻め込んだが真田に敗れた。
秀吉の時代が来ると秀吉について真田幸村は秀吉に仕えた。
一方信幸は家康に仕えて本田忠勝の娘を嫁にもらった。
豊臣秀吉が亡くなると関ケ原の戦いが起きた。
真田昌行は幸村は西軍につき信幸は家康の東軍についた。
どちらが勝っても負けても真田は生き延びる知恵だった。
昌幸と幸村は中仙道を行く東軍3万を上田で足止めをさせ、
関ケ原の戦いに間に合わないようにした。
昌幸と幸村は西軍が勝ったと思ったことだろう。
しかし関ケ原の戦いで西軍は敗れ東軍の家康が勝利した。
天下は豊臣家から徳川家が治めることになった。
真田昌幸と幸村は高野山九度山に蟄居となった。
昌幸はそこで亡くなった。
そして家康が大阪城の豊臣家を滅ぼすため大阪の役が起きた。
真田幸村は大阪城に入った。
家康は真田昌幸が大阪城に入ったのかと思って大変びっくりしたようだ。
昌幸には二度負けているのだ。
昌幸はもう亡くなっているではありませんかっと聞き、
子供の方かと聞き安心したようだ。
しかしその子供の幸村が大阪城に真田丸を作って徳川軍をさんざん苦しめ、
家康本陣まで幸村が突撃してきて家康は30kmも逃げたという。
家康の影武者は皆やられたと聞いたのだけど生き残ったのが影武者ではないかと私は思っている。
しかし幸村も力つきて大阪城も焼かれ豊臣家は滅亡した。

No.5975 - 2026/03/27(Fri) 11:56:36
黒田官兵衛 児童書 / 良太
「黒田官兵衛」 楠木誠一郎著 講談社火の鳥伝記文庫 読破

織田配下だった荒木村重が背いて毛利、本願寺側についてしまい、
黒田官兵衛は荒木村重を説きに行くが、
捕まって1年間地下牢に入れられた。
荒木村重の城は織田軍によって落とされ、
黒田官兵衛は助け出された。
織田家に預けておいた官兵衛の子供はころしてしまったとのことで
信長はすまぬっとだけ言った。
ところがしんだ竹中半兵衛がころしたと偽って美濃の奥地でかくまっていた。
官兵衛とその子供は再会することができた。のちの黒田長政なんだが。
また備中高山城を水攻めにしていた秀吉の元に本能寺での信長の訃報が届いた。
官兵衛は「運はこちらに向いております」と言った。
いよいよ秀吉に天下をとらせる時が来たっと心に誓った。
天下を取った秀吉が、わしがいなければ誰が天下を取るか?と問いたが、
秀吉は官兵衛だと答えた。
官兵衛はそれを聞いて身の危険を感じて隠居してしまった。
また関ケ原の折の時に家康が黒田長政の右手を取って礼を言ったそうだが、
官兵衛は「その時、左手は何をしていたのか?」っと言ったそうだ。
何故、左手で家康を刺さなかったのかと言いたかったのではないかと言われている。

No.5974 - 2026/03/26(Thu) 22:47:15
徳川家康 児童書 松本清張著 / 良太
「徳川家康」 松本清張著 講談社火の鳥伝記文庫
信長、秀吉、家康の性質をたとえた詩です。
  なかぬなら、ころしてやろう、ほととぎす(信長)
  なかぬなら、なかしてみよう、ほととぎす(秀吉)
  なかぬなら、なくまでまとう、ほととぎす(家康)
みんな知っていると思うのですが児童書にはこういう基本的なことから有名な話はだいたい書いてあります。
21歳頃に仕事と夜間大学をやめて秩父に帰ってきて入れられた精神病院に
この本が置いてあって児童書だけど読んで感銘を受けました。
34歳頃に入れられた精神病院では山岡荘八の徳川家康を読みました。
幼い頃から人質にされて苦労した徳川家康に共感を憶えました。

No.5973 - 2026/03/26(Thu) 17:47:07
明智光秀 児童書 / 良太
「明智光秀」 浜野卓也著 講談社火の鳥伝記文庫 読破

このあいだ読んだ明智左馬之助の恋で、
明智光秀が京で馬ぞろえをする担当の奉行になって
帝や朝廷の人も来て14万人の人出でたいそうにぎやかだった話が書いてあって、
はじめて読んだ気がしたけどちゃんとこの本にも書いてあった。
他の人の伝記には書いてないのかもしれない。
本能寺の変の時に京で閲兵があるからといって本能寺に向かったのだけど
関連があるようなないような。。
左馬之助は光秀のいとこと書いてあった。

No.5972 - 2026/03/26(Thu) 12:07:42
豊臣秀吉 児童書 / 良太
「豊臣秀吉」 岡田章雄著 講談社火の鳥伝記文庫 読破

児童書です。あとがきに名言があった。江戸時代の中ごろに作られた狂歌。
 織田がこね、羽柴がつきし天下もち、すわれしままに食うは家康。
短くすると、織田がこね、秀吉がつき、家康が食った。
あるいは、信長がもちをつき、秀吉がまるめ、家康が食べた。
こちらの方が有名のようだ。

No.5971 - 2026/03/25(Wed) 22:07:52
織田信長 児童書 / 良太
「織田信長」 鈴木俊平著 講談社火の鳥伝記文庫 読破

児童書です。読書記録は書かない。。
前は長編小説を読む前に児童書を読んでいました。

No.5970 - 2026/03/25(Wed) 22:04:28
明智左馬之助の恋 下 / 良太
「明智左馬之助の恋 下」 加藤廣著 文春文庫 読破

この本は加藤廣さんの本能寺三部作の三つめにあたる。
主人公は明智光秀の養子とされる明智左馬之助である。
琵琶湖を馬で渡ったことが有名だ。
明智光秀が本能寺の変で信長を亡き者にするわけだけど
最近同じような本を読んでいたのでどの本にどの内容が書かれていたかわからなくなっています。
この本で武田を滅ぼした時に特に光秀と信長のトラブルはなかったと思います。
また光秀の母を人質にして波多野氏を捕まえたとか確認できなかったか忘れてしまいました。
徳川家康の接待役を解約された話はでてきました。
それが一番屈辱だったと書いた本が多いのですが秀吉の援軍にいくためなんだが。
そして本能寺の変が起こったわけだが、この本では朝廷から信長を討てとの綸旨が出ていたようだ。
また本能寺には脱出通路があったみたいだけど前作を前に読んだ気がする。
脱出通路は秀吉によってふさがれたという。
また徳川家康もあやしい。
毛利と戦っていた秀吉がこのことがわかっていたように京に帰ってきて
山崎の合戦で明智光秀を破りました。
本能寺で信長の遺体は見つからなかったように光秀のちゃんとした首もわからない。
小説の最後に坂本城で左馬之助と綸は結ばれ最後を迎えた。

No.5969 - 2026/03/24(Tue) 22:01:22
明智左馬之助の恋 上 / 良太
「明智左馬之助の恋 上」 加藤廣著 文春文庫 読破

南朝の血を引くといわれる三宅弥平次はそのことを隠し
明智家の養子となり左馬之助を名乗った。
明智光秀の娘綸と左馬之助は許嫁になっていたが、
信長の命令で綸は荒木村重と結婚させられた。
ところが荒木村重は信長に謀反を起こし、
綸も明智家に返してきた。
明智光秀は綸と左馬之助を結婚させた。
でも綸は村重の子を流産したみたいで体が弱かった。
信長は朝廷のところで馬ぞろえをさせるというので
明智光秀は馬ぞろえを取り仕切った。
馬ぞろえは何度も行われ朝廷には不興のようだった。

No.5968 - 2026/03/24(Tue) 21:40:29
織田信長 5 本能寺の巻 / 良太
「織田信長 5 本能寺の巻」 山岡荘八著 講談社 読破

今まで信長自身が家康の援軍にきてくれることはなかったが、
やっと信長が長篠の戦いで援軍にきてくれた。
信長は数千丁の鉄砲と角材をもってきた。
角材で鉄砲隊の前に柵を作った。
武田勝頼軍は鉄砲隊の前に突撃を繰り返した。
当時の鉄砲は連射が出来ず突撃を繰り返せば勝てた。
しかし信長の鉄砲は3千丁。
千丁ずつの鉄砲が三段打ちで火を吹いた。
武田勝頼軍はほぼ全滅してしまった。
次に脅威となったのは上杉謙信だった。
信長は上杉には柴田勝家を総大将にして、前田利家、佐々成正などで備えていて、
守りの抑えに安土城を築いたが上杉謙信も卒中でシんでしまった。
松永久秀は謙信に期待して何度目かの謀反を起こしたがとうとう討伐された。
残るは大阪本願寺だけかと思われたが荒木村重が背いた。
荒木村重の部下が本願寺に米をまわしていてそれがバレたので
信長はそれを許さないと思ったのだった。
説得にいった秀吉の軍師黒田官兵衛は1年間地下牢に入れられることになった。
大阪の本願寺には毛利が米をまわしていた。
制海権も毛利が握っていたが、信長は鉄甲船を作り毛利水軍を破り制海権を得た。
荒木村重は城から脱出して逃げ本願寺は大阪から退去させられた。
四面楚歌だった信長もやっと落ち着き安心感が出てきた。
信長は甲斐信濃に攻め込み武田勝頼を滅ぼした。
この時、明智光秀が「われわれも苦労したかいがありましたな」といって
信長に「いったい誰が苦労したというのだ」といって折檻されたと書いた本が多いが
この本はそういう風には書いたなかったが光秀は折檻されて不興をかったようだ。
また光秀は丹後あたりの波多野兄弟を自分の母を人質にして連れてきたが、
信長は波多野兄妹をころしてしまい光秀の母はころされてしまった。
しかしその母というのは光秀の実の母ではなかった。
天下人になった信長は自分の母だといつわって敵を捕縛するのを許さなかった。
これでまた光秀は信長の不興をかった。
また近畿が平和になったので信長は家康を読んで接待しようとした。
家康といえば嫡男の信康に信長は娘の徳姫を妻に与えたのだがうまくいってなかったようだ。
徳姫が悪口を言ったのかいろいろ噂もあり、
家康の嫡男と家康の妻築山殿は武田に通じて謀反の疑いがあると切腹あるいは自害させられてしまった。
信長の言葉は絶対であり家康も逆らうことはできなかった。
信長の嫡男信忠より家康の嫡男信康の方が年上だったのが具合が悪かったのかもしれない。
家康も嫡男と妻をころされた恨みがあったと思う。
そんな時に家康の接待役を光秀がまかされ家康と光秀は長く話す機会があったはずである。
光秀は「もう信長様にはついていけそうもない。家康様も信長に恨みがあるでしょう」みたいな話はあったかもしれない。
そして光秀は家康の接待役をはずされ毛利と戦っている秀吉の援護に行けと信長に命令された。
京の近くに領土を持っていた光秀が鳥取の方へ領地替えになるという話も聞こえてきた。
森蘭丸に光秀の領土を与えるという話だった。
光秀には秀吉の援護に行くのに1万くらいの兵があった。
信長といえば数百人で本能寺に泊まることがわかっていた。
家康は大阪の方へ見物に行っているところだった。
明智光秀は「ときは今、あめが下しるさつきかな」っという詩を読んで
一万の兵を京で馬ぞろえがあると称して本能寺に向かった。
こうして本能寺の変は起きた。
秀吉は毛利と戦っていて、柴田勝家は上杉と戦っていて、滝川一益は群馬あたりで北条と戦っていた。
明智光秀にとって絶好のチャンスが来たのだった。
家康が光秀の背中をおしたのか、足利義昭から催促されていたのか。。

No.5967 - 2026/03/23(Mon) 17:27:36
以下のフォームに記事No.と投稿時のパスワードを入力すれば
投稿後に記事の編集や削除が行えます。
300/300件 [ ページ : << 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ... 30 >> | 過去ログ | 画像リスト ]

- HOME - お知らせ(3/8) - 記事検索 - 携帯用URL - フィード - ヘルプ - メール - 環境設定 -

- Icon: ぱたぱたアニメ館 -

Rocket Board Type-LS Rocket BBS