 | 「秀吉 夢を超えた男 下」 堺屋太一著 NHK出版 読破
秀吉は信長が本能寺で明智光秀の謀反にあったことを知り、 毛利にばれる前に和議を結び明智光秀を討つために近畿に戻ってきた。 織田家はばらばらになっていたが秀吉の元へ集まってきた。 四国に渡ろうとしていた丹羽長秀と織田信孝とも合流できて光秀と戦って勝てた。 光秀は落ち武者刈りにあってしんだといわれている。 柴田勝家は上杉と戦っていて、滝川一益は群馬で北条と戦っていて、 甲信では一揆がおこって無法地帯となっていた。 徳川家康はこの機に甲信を手に入れた。 織田家相続争いで秀吉は柴田勝家に賤ケ岳の戦いで勝って有利になった。 しかし織田信雄は家康に援護を求めて小牧長久手の戦いで秀吉は家康に敗れる。 ここで秀吉は伊勢の織田信雄を攻め和議を結んだ。 家康は秀吉と戦う名分がなくなり手を引いた。 なんとか家康を服従させたい秀吉は結婚していた朝日を離縁させて家康の妻にした。 それから母も家康の元におくりやっと家康に上洛してもらった。 家康は臣下の礼をとってくれた。 これで秀吉は九州まで制圧して関東の北条も滅ぼし会津まで行き東北も制圧下に置いた。 1590年に秀吉は家康を東海甲信から関東に移した。 三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5か国150万石から関八州250万石への加増だった。 1569年に武田信玄に焼かれた秩父神社を1592年に家康が再建してくれた。 この頃に弟の秀長がしんでしまった。 秀吉は千利休も切腹させた。 シンプルなわびさびに徹した千利休の茶道と組み立て式の黄金の茶室を作った秀吉は合わなかった。 日本を統一した秀吉だがもう家臣に褒美で渡す土地がない。 平和になり士族もいらなくなりその不満を外征に向けるため朝鮮に出兵した。 明治維新の時も徴兵制ができて士族の不満を外征に向けるために征韓論がおこった。 秀吉は朝鮮は明まで道案内してくれて簡単に明を制圧できると思っていた。 大きな間違いだった。 秀吉とお市の娘淀殿(茶々)に子供が生まれ一人目は2歳でしんだが二人目も生まれた。秀頼である。 秀吉は何度も五大老の徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家に誓紙を書かせ 秀頼を頼むといって亡くなった。 秀吉が織田家を立てなかったように秀頼にも天下がまわってくることはなかった。 秀吉に商売の仕方や帳簿のつけ方を教えてくれたがんまくこと石川五右衛門はつかまり釜茹での刑になった。
 |
No.5962 - 2026/03/13(Fri) 16:36:39
|