 | 「豊臣秀吉 7」 山岡荘八著 講談社 読破
織田信雄は織田信孝を自害に追い込んだ。 大阪城を築き織田家相続争いをだいたい制した秀吉だったが、 伊勢だか尾張の織田信雄は家康に助けを求めた。 家康はそれに応じて家康と秀吉が戦うことになった。 秀吉は美濃に出て行き、家康は小牧山を本拠とした。 秀吉軍は6万人で家康軍は2万5千人だったが家康にすきはない。 秀吉軍は中入りといって間道を通って家康の本拠の岡崎を突こうとした。 しかし中入りした部隊は長久手で家康によって全滅させられてしまった。 秀吉がそれに気づいて長久手にいった時には家康はどこかの城に入ってしまっていた。 その時、長久手で家康が秀吉を攻めていれば家康が勝ったとされている。 しかし家康は勝ちすぎてもよくないとしていた。 秀吉で天下が治まっているものを秀吉を倒してしまったらまた世の中は乱れる。 家康にはまだ天下を治めるほどの力がない。 秀吉を滅ぼしてしまったら今度は家康が袋叩きとなる。 というわけで小牧長久手の戦いは家康の勝ちに終わった。 秀吉はしかたがないので伊勢の織田信雄の城を攻めた。 織田信雄は秀吉と和睦してしまった。 家康は秀吉と戦う義理がなくなり岡崎から浜松へと撤退した。
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No.5932 - 2025/12/16(Tue) 07:00:48
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