 | 「新太閤記 3」 海音寺潮五郎著 文芸春秋 読破
織田軍を破って上洛しようとしていた上杉謙信が卒中でしんだ。 一番の危機から脱した信長は本願寺も大阪から退去させることができた。 それから武田勝頼を滅ぼしたのかな。 信長は甲信を手に入れ群馬の前橋に滝川一益を置いて北条と戦っていた。 西は秀吉が毛利と戦っている。 信長のいる近畿は大分安全地帯となった。 信長は家康を安土城に呼んで接待していた。 そこへ毛利と戦っている秀吉から援護に来てくれと連絡が入った。 家康の接待をしていた明智光秀は接待役をはずされ秀吉の援軍に行くように命ぜられる。 信長は本能寺に泊まり、家康は大阪、堺などの見物をしていたようだ。 そこへ1万5千の兵力を持った明智光秀は京で信長に馬ぞろえを見せるなんたらといって京に向かう。 前日、明智光秀が歌った詩は「ときは今、あめが下しる五月(さつき)かな」だった。 明智光秀は敵は本能寺にありと言って信長に謀反を起こした。 二条城に泊まっていた嫡男の信忠とともに光秀にころされた。 大阪見物をしていた家康は伊賀越えでやっと三河に帰った。 毛利領の高松城を水攻めをしていた秀吉にも訃報が入った。 軍師の黒田官兵衛は「運がひらけてきましたぞ」みたいなことを言った。 秀吉は毛利に訃報が伝わる前に毛利と和睦して急いで東へ走った。 秀吉が戻ってくるとばらばらになってた織田軍が集まってきた。 丹羽長秀と織田信孝と合流し、山崎の合戦で明智光秀を破った。 明智光秀は逃亡中に落ち武者刈りにあってしんだといわれる。 光秀の首だと持ってきた人があったが果たして本物の首だったろうか。 織田家相続争いがはじまった。清須会議が開かれた。 信孝を推す柴田勝家と信忠の子三法師を推す秀吉。 光秀を破った秀吉の主張が通り三法師が世継ぎになった。まだ二歳。 信孝は柴田勝家にお市を与えた。3人の娘も同行した。 賤ケ岳の戦いで秀吉は柴田勝家を破る。
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No.5955 - 2026/02/20(Fri) 20:13:28
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