 | 「新史太閤記 上」 司馬遼太郎著 新潮文庫 読破
秀吉の名前は日吉、木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉などあるのだが 統一して秀吉で書こうと思う。尾張の生まれだ。 秀吉の父は織田に使える足軽だったが若くしてしんでしまい、 秀吉の母は竹阿弥(ちくあみ)と再婚し弟、秀長を生んだ。妹は誰の子だったかな? 秀吉は竹阿弥とはうまくいかず寺にあずけられた。 寺では読み書きそろばんを習ったのかもしれない。 秀吉は寺ともうまくいかなかったのか、 父が残してくれたお金を針にかえ針売りなどをして 美濃や東海などをまわったらしい。 秀吉は尾張の信長がうつけと聞いて、 その頃評判が良かった今川家の松下嘉兵衛(かへえ)という人の屋敷に仕えた。 でに秀吉は仕事ができすぎるのでいやがらせを受け尾張に帰る。 尾張に戻ると信長に士官した。っといっても父の後を次いで足軽になった。 でも秀吉は信長様に仕えたいと信長の草履取りなどをしたようだ。 その頃に今川義元が上洛戦をしかけてきたのだろうか。 尾張の砦を次々に落とし破竹の勢いだった。 だが今川義元は太っていたり足が短かったため馬にはのれす駕籠を使った。 駕籠にもずっと乗っていることはできず休みも多かった。 今川義元は桶狭間で休んでいるという。 信長は城を飛び出した。一気に桶狭間を急襲し今川義元を討ち取った。 ちょうど雷雨があったと伝える本もある。 第一の手柄になったのは今川義元を討ち取った者ではなく、 今川義元が桶狭間で休んでいると伝えた人だった。 この時、家康は今川の人質にされていたが今川の武将が退却してしまったので自分の岡崎城に入れた。 信長と家康はこの時同盟を結んだ。 秀吉がねねと結婚したのもこの頃だろうか。ねねはまだ13歳だった。 ねねは浅野家の養女で秀吉はよく浅野家の世話になっていたようだ。 秀吉はメシの煮炊きをする木材の奉行を勤め成果を上げたり、 城の石垣が崩れたので秀吉が奉行をまかされ成果を上げたりした。 秀吉が弟の秀長を呼び寄せたのもこの頃かもしれない。いつ頃だろう? 信長は美濃を取ろうとするがいつも撃退されてしまっていた。 川向うの墨俣に城を築こうとするが誰もできなかった。 ここで秀吉に出番がまわってきた。 秀吉は墨俣に城を築くことに成功した。 秀吉は放浪していた頃に知り合ったのか蜂須賀小六などの野武士を うまく使ったといわれている。 それから秀吉は美濃の武将の調略に成果を上げたとされている。 竹中半兵衛なども秀吉の軍師となった。 ついに信長は美濃を取った。美濃を岐阜と改めた。 その頃、落ちぶれた室町幕府将軍足利義昭が信長を頼ってきた。 明智光秀が仲を取り持ったといわれている。 近江の浅井家に妹のお市を嫁がせた信長は一気に京を占領してしまった。 足利義昭は信長に副将軍になってほしいと頼むが断られる。 信長は何の官位も望まなかったが堺などの街の支配権をもらった。 信長は越前の朝倉領に攻め込んだが浅井にそむかれ退却した。 しんがりを秀吉が勤めた。家康の退却も遅かったので一緒にしんがりを勤めたようだ。 姉川の戦いでは信長家康が浅井朝倉を破った。 秀吉は浅井の攻略をまかされついに浅井の城を落としお市と茶々など3人の娘を救出した。 信長は近江20万石を秀吉にまかせた。 武田信玄が亡くなったのはいつ頃だったかな。 信長は長篠の合戦で武田勝頼の騎馬隊を鉄砲の力で勝利しました。 脅威だった上杉謙信なども卒中で亡くなってしまった。 秀吉は毛利攻めをまかされていて、黒田官兵衛を軍師に迎えた。 黒田官兵衛は大変苦労したようだ。敵城の地下牢に1年間くらい入れられたり。 信長は黒田官兵衛が裏切ったと思い子供をころす命令を出したが、 竹中半兵衛はころしたといつわって保護した。 竹中半兵衛も病気がちで亡くなってしまった。
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No.5920 - 2025/11/23(Sun) 20:10:04
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