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織田信長 1 無門三略の巻 NEW / 良太
「織田信長 1 無門三略の巻」 山岡荘八著 講談社 読破

うつけと呼ばれた信長がうつけでないとわかってくる様子がおもしろいです。
少女たちに相撲をとらせ、子分たちと畑の瓜を食い散らかしていく信長だった。
うつけなどなんとでも言え、自分の力で城一つくらい取れると思っている信長だった。
ただのうつけで終わるか天下を取るか。
信長の父信秀は結構若くしてしんでしまった。信長が家督を継いだ。
信秀の葬式の時、信長は信秀の位牌に香を投げつけ出て行った。
織田の家臣たちはあんなうつけではどうしようもない、弟の信行を立てるべきだと言った。
信長の守役の平手政秀は信長を諫め自刃してしまった。
平手政秀は信長に味方してくれていた唯一の人だった。
また信長は美濃のマムシの斉藤道三の娘を嫁にもらっていた。濃姫だ。
マムシの道三も信長の人物を認め美濃を信長にくれてやることになるだろうと言った。
しかし道三もせがれの義龍の謀反にあいしんでしまった。
信長も美濃に兵を出すが道三を助けることはできなかった。
道三がしに濃姫の価値もなくなり子供も生まなかったので、
信長は子供が欲しいと一度に妾を三人持った。
市場の針売り(秀吉)から竹千代に今川の嫁をもらって子供ができたことを聞いたのだった。
竹千代(家康)は尾張の人質になっていて捕まった信長の兄信広と捕虜交換をしたのだった。
家康は今度は今川の人質になってしまっていた。
信長は尾張を統一するのに苦労していた。
信長と行儀の良い弟の信行との対立が大きくなっていった。
柴田勝家などが信行側についていた。

No.5963 - 2026/03/14(Sat) 17:18:15
秀吉 下 / 良太
「秀吉 夢を超えた男 下」 堺屋太一著 NHK出版 読破

秀吉は信長が本能寺で明智光秀の謀反にあったことを知り、
毛利にばれる前に和議を結び明智光秀を討つために近畿に戻ってきた。
織田家はばらばらになっていたが秀吉の元へ集まってきた。
四国に渡ろうとしていた丹羽長秀と織田信孝とも合流できて光秀と戦って勝てた。
光秀は落ち武者刈りにあってしんだといわれている。
柴田勝家は上杉と戦っていて、滝川一益は群馬で北条と戦っていて、
甲信では一揆がおこって無法地帯となっていた。
徳川家康はこの機に甲信を手に入れた。
織田家相続争いで秀吉は柴田勝家に賤ケ岳の戦いで勝って有利になった。
しかし織田信雄は家康に援護を求めて小牧長久手の戦いで秀吉は家康に敗れる。
ここで秀吉は伊勢の織田信雄を攻め和議を結んだ。
家康は秀吉と戦う名分がなくなり手を引いた。
なんとか家康を服従させたい秀吉は結婚していた朝日を離縁させて家康の妻にした。
それから母も家康の元におくりやっと家康に上洛してもらった。
家康は臣下の礼をとってくれた。
これで秀吉は九州まで制圧して関東の北条も滅ぼし会津まで行き東北も制圧下に置いた。
1590年に秀吉は家康を東海甲信から関東に移した。
三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5か国150万石から関八州250万石への加増だった。
1569年に武田信玄に焼かれた秩父神社を1592年に家康が再建してくれた。
この頃に弟の秀長がしんでしまった。
秀吉は千利休も切腹させた。
シンプルなわびさびに徹した千利休の茶道と組み立て式の黄金の茶室を作った秀吉は合わなかった。
日本を統一した秀吉だがもう家臣に褒美で渡す土地がない。
平和になり士族もいらなくなりその不満を外征に向けるため朝鮮に出兵した。
明治維新の時も徴兵制ができて士族の不満を外征に向けるために征韓論がおこった。
秀吉は朝鮮は明まで道案内してくれて簡単に明を制圧できると思っていた。
大きな間違いだった。
秀吉とお市の娘淀殿(茶々)に子供が生まれ一人目は2歳でしんだが二人目も生まれた。秀頼である。
秀吉は何度も五大老の徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家に誓紙を書かせ
秀頼を頼むといって亡くなった。
秀吉が織田家を立てなかったように秀頼にも天下がまわってくることはなかった。
秀吉に商売の仕方や帳簿のつけ方を教えてくれたがんまくこと石川五右衛門はつかまり釜茹での刑になった。

No.5962 - 2026/03/13(Fri) 16:36:39
秀吉 夢を超えた男 中 / 良太
「秀吉 夢を超えた男 中」 堺屋太一著 NHK出版 読破

朝倉の元にいた足利義昭が信長を頼ってくると、
信長はあっという間に上洛して京を占領してしまった。
近江の浅井長政にお市を嫁がせていたこともうまくいった。
京では足利義昭のために二条城を作ってやったのかな。
朝廷の方にも献金してやったり館を作ってやったようだ。
室町幕府将軍に返り咲いた足利義昭は信長のことを父のように思うと言った。
義昭は信長に副将軍についてもらいたいと言ったが信長は受けなかった。
信長は堺などの支配権だけもらった。
商業に眼をつけていたのは信長だけだった。
それから信長は越前の朝倉に攻め込んだが、
近江の浅井長政に背かれ信長は退却した。
この時秀吉はしんがりをつとめが無事京に帰れた。
秀吉の株は上がった。
浅井朝倉と姉川の戦いとなるが徳川家康のおかげで勝てた。
そして武田信玄が上洛戦をしかけてきた。
徳川家康の領地を通っていく、家康は果敢にも信玄を攻めたが惨敗してしまった。
信長も3千の兵しか送ってくれなかった。
しかし武田信玄は病気で亡くなってしまい武田軍は退却した。
信長は信玄や浅井朝倉に信長を討てと手紙を書いていた足利義昭を追放した。
ここに足利幕府は終わった。
信長は浅井朝倉軍が逃げ込む比叡山を焼いた。
そして朝倉を滅ぼし浅井も滅ぼした。
浅井長政に嫁いでいたお市と3人の娘たちは保護された。
秀吉は北近江12万石をもらって大名へと出世した。
琵琶湖の東の今浜を長浜と改め城を築いた。
その城には琵琶湖の船を引き入れることができた。
また近江の国友村には鉄砲を作れる鍛冶がいて量産させることにした。
そして長篠の戦で鉄砲の力で武田勝頼を破った。
家康にとってはやっと信長が援軍に来てくれた。
しかし信長は家康の妻と長男信康に謀反の疑いがあるところさせた。
妻と信康には今川の血が流れていたので無理もない。
信康に嫁がせた信長の娘徳姫ともうまが合わなかったようだ。
次に脅威となったのは上杉謙信だった。
信長は安土城を築いて守りの要としたが上杉謙信は卒中で死んでしまった。
あとは大阪の本願寺が残るのみとなったが
早くから信長についていた摂津の荒木村重が謀反を起こした。
秀吉の軍師黒田官兵衛が説得にいくが1年間も地下牢に入れられた。
荒木村重の部下が本願寺に兵糧や武器をまわしていたのだ。
それが発覚したので信長を裏切るしかなかった。
また毛利の水軍が瀬戸内海の制海権をにぎっていて本願寺に物資を入れていた。
信長は最初の水軍の戦いで敗れたが鉄甲船を作り毛利水軍を撃破して制海権を得た。
これにより荒木村重は城から逃亡して黒田官兵衛は助けだされた。
本願寺も大阪を退いた。伊勢の一向一揆にも苦労したものだ。
そして秀吉が毛利と戦っていて備中高山城を水攻めにしていた時に信長の訃報が届いた。
本能寺で明智光秀の謀反によって信長がころされたのだ。

No.5961 - 2026/03/06(Fri) 15:05:04
秩父ミューズパーク梅園 / 良太
秩父ミューズパーク梅園も見頃となっております
2026年3月5日(木)

No.5960 - 2026/03/05(Thu) 13:26:22
水鏡推理 Vlll マイクロプラスチック / 良太
「水鏡推理 Vlll マイクロプラスチック」 
松岡圭祐著 角川文庫 読破

この本の世界ではマイクロプラスチックの被害が、
花粉症のように大きな広がりを見せていた。
実際に私もマイクロプラスチックはそれ以上分解されずに、
魚や人体に蓄積していくと聞いたことがある。
それで本の世界ではマイクロプラスチックが排出されるというアプリが広まっていた。
しかしそれは皆インチキくさいアプリで体を悪くする人が現れた。
また体内洗浄クリニックなどが盛んになりそこでも施術ヵ所が悪化する人が現れた。
ヒロイン水鏡瑞希は文科省の科学技術・学術政策局研究環境課、研究公正推進室という部署のホープ。
水鏡瑞希はアプリがインチキなことを証明してインチキな施術をしていることを突き止め、
警察に突きだすことができた。
っという理解で合ってるかな。。

No.5959 - 2026/03/02(Mon) 23:16:01
秀吉 夢を超えた男 上 / 良太
「秀吉 夢を超えた男 上」 堺屋太一著 NHK出版

尾張(愛知県かな)でサルと呼ばれた少年(秀吉)は、
義父とうまがあわず家を飛び出した。
父が残してくれた銭を針に変え各地をまわったようだ。
がんまくという者が教えてくれたものだ。
また今川領の松下嘉兵衛というものに仕えたが
納戸役までいったが尾張者だったり体が小さかったりしてせいで
いじめられて暇をもらって尾張に帰ってきた。
秀吉(木下藤吉郎)は信長に士官したいと思った。
またがんまくがとりもってくれて信長に士官を果たした。
がんまくはのちの石川五右衛門であった。
秀吉ははじめは柴薪奉行を勤めた。
帳簿のつけ方をがんまくが教えてくれた。
米を炊くにも薪がいる。秀吉は使い終わった火を消してまわって
焼け残った炭や木を持って行ったようだ。
信長も焼け残った木を見てサルもやってるなと思ったようだ。
当時は火をつけるのが大変で火種を管理する人が決まっていればいいと私は思った。
また蜂須賀小六などの川浪衆を使って柴や薪を安く買い占めたようだ。
蜂須賀小六などの仲を取り持ってくれたのもがんまくだったかな。
2年くらい柴薪奉行を勤めた秀吉を信長は気に入り草履取りにしてくれた。
草履取りになると各武将たちとも会う機会が増え情勢を聞いたりできたようだ。
馬に乗った信長についていくのも大変で他の従者に遅れないようについていけば良いとおもったようだ。
それから秀吉は足軽になり、やっと士分に取り立てられた。
戦いは一人で飛び出すのではなく槍衾をつかって団結することが大事だった。
今川義元が上洛戦を起こしてきたのはこの頃だろうか。
今川義元は前線の勝利を受けて余裕しゃくしゃくで尾張に近づいてきた。
信長はこの時を待っていた、ほら貝を吹き一気に出陣した。
うまく前線にたどり着いた信長はそこで梁田政綱の細作が
今川義元の本陣は桶狭間に向かっているという確かな情報をもたらした。
2万5千人の今川義元も各地の砦に兵を送っており、本陣には5千人くらいがいるだろうか。
信長の兵は2千5百くらいだ。勝ち目はある。
信長が今川義元の本陣に殺到した時には義元はもう逃げ支度をしていた。
服部小平太が一番槍をあげ、毛利新介が義元の首を上げた。
大勝利だ。逃げる今川勢を追って信長軍は皆たくさんの首をあげたようだ。
義元の首を上げた毛利伸介は500貫を加増で、
義元に一番槍とつけた服部子平太は1000貫の加増で
一番の褒美は義元の居場所を教えた梁田政綱で3000貫の加増を受けた。
このあと秀吉は組頭となり丹羽長秀のもとについた。
組頭になったので弟の小一郎秀長を呼び寄せて家来にした。
また組頭になったのでおねとの結婚もできた。秀吉25歳、おね15歳。
お城の崩れた石垣をなおしたのはこの頃だったかな。秀吉の手柄になった。
信長は美濃(岐阜)を攻略するため小牧山に城を移した。
秀吉は川向うの美濃領の墨俣に城を築くことに成功した。
そして博識高い竹中半兵衛を秀吉は三顧の礼で軍師に迎えた。
竹中半兵衛は西美濃三人衆の安藤守就の娘の婿だったことから
西美濃三人衆の安藤守就、氏家卜全、稲葉一鉄は信長についた。
あとは稲葉山城を落とすだけとなり斎藤龍興は降伏して美濃から追放された。
信長は美濃を岐阜と改め天下布武をかかげた。
稲葉山城は岐阜城となって信長の本拠となった。
そこへ越前の朝倉を頼っていた名ばかりの室町幕府将軍足利義昭が
信長に頼りたいと明智光秀をつかわせてきた。
信長はこころよくそれを受けた。

No.5958 - 2026/02/28(Sat) 14:16:21
宝登山神社 / 良太
今日は宝登山神社まで行ってきました。

No.5957 - 2026/02/27(Fri) 13:10:12
新太閤記 4 / 良太
「新太閤記 4」 海音寺潮五郎著 文芸春秋 読破

賤ケ岳の戦いで敗れた柴田勝家はお市とともに自害した。
お市の3人の娘たちは秀吉の元へおくられ保護された。
長女の茶々は秀吉の妻となり、次女は名家京極家に嫁ぎ、三女は徳川秀忠に嫁いでいる。
柴田勝家を滅ぼした秀吉は天下人に近づいた。
しかし織田信雄は家康に援護を求めた。
秀吉vs家康の小牧・長久手の戦いが始まった。
家康は小牧山に陣取り地の利を得た。
秀吉に家康の本拠三河を突きたいと中入りを申し出た武将がいたが、
家康に早くに気づかれ全滅してしまった。
秀吉が家康を追おうとしたがどこの城に入っているかわからず
気づいたときには小牧山に戻っていた。
秀吉が負けた戦いだった。
だが秀吉は織田信雄の本拠伊勢を攻め信雄と和議を結んでしまった。
家康は戦う大義がなくなり引き上げた。
秀吉は家康の官位を上げたりしてさんざん家康のきげんをとったが家康は上洛してくれない。
秀吉は結婚していた妹の朝日を離縁させて家康の妻に送り、
また秀吉の母に朝日を見に行ってくれと家康の元に送りやっと家康に上洛してもらった。
家康は上洛したからには秀吉に仕えた。
秀吉は家康が上洛してくれたので東の恐怖はなくなり九州まで制圧してしまった。
それから東に転じて小田原の北条を攻めた。
秀吉は北条を滅ぼすと東海甲信の家康を関東に移した。1590年だったかな。
秀吉はできるだけ大阪、京から遠くにやりたかったようだが、
家康はうまく治めて江戸時代が来ることになる。
1592年に家康が秩父神社を再建してくれた。
ちなみに日光東照宮は家康を祭って作られた神社です。
秀吉の弟小一郎秀長は1591年に亡くなったようだ。
しかしこの頃秀吉と淀殿(茶々)の間に子供が生まれた。鶴松だ。
しかし鶴松も3歳くらいで亡くなってしまった。
それがきっかけだったか秀吉は朝鮮出兵をした。
また日本が治まって士族の不満を外に向けるためともされる。
朝鮮の2皇子をつかまえたが、明(中国)から援護が来るとあやしくなってきた。
陳舜臣に船を沈められていたのも痛い。
秀吉は和睦に応じたが、「汝を日本国王となす」っという手紙に激怒して
2回目の朝鮮出兵を行なった。
そしてまた淀殿が秀吉の子を生んだ。秀頼である。
秀吉は何度も家康や前田利家などに誓書を書いてもらって秀頼を頼むと頼んだが、
織田家を秀吉が奪ってしまったように豊臣家を家康は滅ぼしてしまった。
秀吉がしに朝鮮出兵は終わった。
秀吉の辞世の句は
 露とおち露と消えぬるわが身かな なにわのことは夢のまた夢

No.5956 - 2026/02/23(Mon) 20:41:07
新太閤記 3 / 良太
「新太閤記 3」 海音寺潮五郎著 文芸春秋 読破

織田軍を破って上洛しようとしていた上杉謙信が卒中でしんだ。   
一番の危機から脱した信長は本願寺も大阪から退去させることができた。
それから武田勝頼を滅ぼしたのかな。
信長は甲信を手に入れ群馬の前橋に滝川一益を置いて北条と戦っていた。
西は秀吉が毛利と戦っている。
信長のいる近畿は大分安全地帯となった。
信長は家康を安土城に呼んで接待していた。
そこへ毛利と戦っている秀吉から援護に来てくれと連絡が入った。
家康の接待をしていた明智光秀は接待役をはずされ秀吉の援軍に行くように命ぜられる。
信長は本能寺に泊まり、家康は大阪、堺などの見物をしていたようだ。
そこへ1万5千の兵力を持った明智光秀は京で信長に馬ぞろえを見せるなんたらといって京に向かう。
前日、明智光秀が歌った詩は「ときは今、あめが下しる五月(さつき)かな」だった。
明智光秀は敵は本能寺にありと言って信長に謀反を起こした。
二条城に泊まっていた嫡男の信忠とともに光秀にころされた。
大阪見物をしていた家康は伊賀越えでやっと三河に帰った。
毛利領の高松城を水攻めをしていた秀吉にも訃報が入った。
軍師の黒田官兵衛は「運がひらけてきましたぞ」みたいなことを言った。
秀吉は毛利に訃報が伝わる前に毛利と和睦して急いで東へ走った。
秀吉が戻ってくるとばらばらになってた織田軍が集まってきた。
丹羽長秀と織田信孝と合流し、山崎の合戦で明智光秀を破った。
明智光秀は逃亡中に落ち武者刈りにあってしんだといわれる。
光秀の首だと持ってきた人があったが果たして本物の首だったろうか。
織田家相続争いがはじまった。清須会議が開かれた。
信孝を推す柴田勝家と信忠の子三法師を推す秀吉。
光秀を破った秀吉の主張が通り三法師が世継ぎになった。まだ二歳。
信孝は柴田勝家にお市を与えた。3人の娘も同行した。
賤ケ岳の戦いで秀吉は柴田勝家を破る。

No.5955 - 2026/02/20(Fri) 20:13:28
今日の秩父ミューズパーク梅園 / 良太
秩父ミューズパーク梅園2026年2月19日(木)
早い木は咲き始めました。

No.5954 - 2026/02/19(Thu) 14:41:02
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