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新太閤記 4 / 良太
「新太閤記 4」 海音寺潮五郎著 文芸春秋 読破

賤ケ岳の戦いで敗れた柴田勝家はお市とともに自害した。
お市の3人の娘たちは秀吉の元へおくられ保護された。
長女の茶々は秀吉の妻となり、次女は名家京極家に嫁ぎ、三女は徳川秀忠に嫁いでいる。
柴田勝家を滅ぼした秀吉は天下人に近づいた。
しかし織田信雄は家康に援護を求めた。
秀吉vs家康の小牧・長久手の戦いが始まった。
家康は小牧山に陣取り地の利を得た。
秀吉に家康の本拠三河を突きたいと中入りを申し出た武将がいたが、
家康に早くに気づかれ全滅してしまった。
秀吉が家康を追おうとしたがどこの城に入っているかわからず
気づいたときには小牧山に戻っていた。
秀吉が負けた戦いだった。
だが秀吉は織田信雄の本拠伊勢を攻め信雄と和議を結んでしまった。
家康は戦う大義がなくなり引き上げた。
秀吉は家康の官位を上げたりしてさんざん家康のきげんをとったが家康は上洛してくれない。
秀吉は結婚していた妹の朝日を離縁させて家康の妻に送り、
また秀吉の母に朝日を見に行ってくれと家康の元に送りやっと家康に上洛してもらった。
家康は上洛したからには秀吉に仕えた。
秀吉は家康が上洛してくれたので東の恐怖はなくなり九州まで制圧してしまった。
それから東に転じて小田原の北条を攻めた。
秀吉は北条を滅ぼすと東海甲信の家康を関東に移した。1590年だったかな。
秀吉はできるだけ大阪、京から遠くにやりたかったようだが、
家康はうまく治めて江戸時代が来ることになる。
1592年に家康が秩父神社を再建してくれた。
ちなみに日光東照宮は家康を祭って作られた神社です。
秀吉の弟小一郎秀長は1591年に亡くなったようだ。
しかしこの頃秀吉と淀殿(茶々)の間に子供が生まれた。鶴松だ。
しかし鶴松も3歳くらいで亡くなってしまった。
それがきっかけだったか秀吉は朝鮮出兵をした。
また日本が治まって士族の不満を外に向けるためともされる。
朝鮮の2皇子をつかまえたが、明(中国)から援護が来るとあやしくなってきた。
陳舜臣に船を沈められていたのも痛い。
秀吉は和睦に応じたが、「汝を日本国王となす」っという手紙に激怒して
2回目の朝鮮出兵を行なった。
そしてまた淀殿が秀吉の子を生んだ。秀頼である。
秀吉は何度も家康や前田利家などに誓書を書いてもらって秀頼を頼むと頼んだが、
織田家を秀吉が奪ってしまったように豊臣家を家康は滅ぼしてしまった。
秀吉がしに朝鮮出兵は終わった。
秀吉の辞世の句は
 露とおち露と消えぬるわが身かな なにわのことは夢のまた夢

No.5956 - 2026/02/23(Mon) 20:41:07

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