 | 「豊臣秀吉 8」 山岡荘八著 講談社 読破
秀吉は44才の妹の朝日姫を離婚させると、 朝日姫を家康の元に嫁がせた。 ゲロゲーロな話だがこれで秀吉と家康は義兄弟だ。 しかしそれでも家康は上洛はしてくれなくて、 秀吉は自分の母を朝日姫に会ってきてくれと家康の元に送り やっと家康に上洛してもらった。 これで東は安全になったので九州まで攻め入り島津を降伏させた。 そして東に転じて北条を降伏させると家康を東海甲信から関東に移した。 1590年のことで家康は1592年に前に武田信玄に焼かれた秩父神社を再建した。 左甚五郎作の龍や虎の彫刻は素晴らしいものがある。 日光東照宮は家康を祭ったもので左甚五郎作の眠り猫や三猿などがある。 奥州には伊達政宗が盛んだったが奥州まで平定して秀吉は日本を統一した。 伊達政宗は秀吉が北条の小田原征伐をしているときに降伏してきた。 ここまでが太陽の子秀吉の絶頂で晩年に入ってくる。 この先はなんか悲しくて書く気力もなくなるのだが、 明を征服しようと思って朝鮮出兵を2度行うが、 食料は現地調達できないし、李舜臣の海軍が日本の船を沈めていった。 そんな折、淀殿が秀頼を生んだ。 しかし月日を考えてみると秀吉の子ではないようにこの本にも書いてある。 でも半分は自分の子だと信じているらしく、秀頼を家督を継がせるために、 後継者とされていた姉の子の秀次を切腹させてしまう。 秀次の子女妻妾を何十人もすべて京都三条河原で斬首させてしまった。 それから秀吉も病気がちになり祟りかなとも思った。 秀吉は秀頼と家康の孫の千姫を結婚させると約束して、 秀頼のことをくれぐれ頼むと五大老、五奉行に言い渡し何度も誓書を取った。 秀吉の辞世の句は、 露とおき露と消えぬるわが身かな 浪花のことも夢のまた夢 秀吉が亡くなり朝鮮から撤収した。
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No.5933 - 2025/12/17(Wed) 21:40:08
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