| 「竹中半兵衛」 八尋舜右著 PHP文庫 読破
美濃の斎藤竜興かな。この領主の評判が悪かったので 改心させるために竹中半兵衛はたった十数名で城を奪ってしまった。 そして一か月くらいで城を返した。 たった十数名では城の統治もできなかったのかもしれない。 城を返した竹中半兵衛だが良くは思われないであろう。身が危ない。 近江の浅井の元に身を寄せたりしていたようだ。 そのうち尾張の信長が美濃を攻略して手に入れた。 竹中半兵衛が信長にこわれて秀吉の軍師となる。 近江の浅井を滅ぼすと秀吉は近江を任されて城持ちとなった。 竹中半兵衛も楽になったかもしれない。 しかし竹中半兵衛の病におかされ始めていた。 武田信玄が死に、浅井朝倉を滅ぼし、上杉謙信は卒中で倒れた。 そして一番やっかいなのが大阪本願寺を主流にする一向宗だった。 魔王信長は三重の一向宗、越前の一向宗を根絶やしにした。 女子供まで皆殺しにしてしまったのだ。 竹中半兵衛は自分は民の見方につくべきではなかったのかと悩む。 魔王信長は比叡山も焼討にしていた。 その後、秀吉は黒田官兵衛という軍師を得た。 しかし黒田官兵衛は敵につかまって地下牢に入れられてしまった。 信長は黒田官兵衛が裏切ったと思い込み官兵衛の子供を殺せと言った。 竹中半兵衛は官兵衛の息子を殺したと偽り保護していた。 敵将の城が落ち官兵衛が助け出された時には竹中半兵衛は病で死んでいた。 官兵衛の子供は無事に官兵衛と対面できえたのであった。 後年の黒田長政である。 秀吉の軍師、竹中半兵衛、黒田官兵衛は両兵衛とか二兵衛とか言われている。
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No.5761 - 2024/04/13(Sat) 15:04:58
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