| 「徳川家康 25」 山岡荘八著 講談社 読破
1615年、大阪夏の陣がはじまった。 豊臣側は大阪城の濠を埋められてしまったので討ってでることになった。 しかし、後藤又兵衛などの武将も相次いで倒れていった。 翌日、大阪城をまくらに真田幸村などが陣をしいた。 真田幸村の影武者が7・8人いたようだ。 関ケ原以来幸村についてきた家臣たちだった。 幸村を討たせないためではなく、方々で全員で攻め攪乱する作戦だった。 ちなみに家康の影武者も5・6人いたらしい。 これは家康を守るためだった。 とにかく情報戦だった。 誰々が寝返ったとか誰々の首をとったとか流言が乱れ飛んだ。 豊臣側もよくがんばった。 入り乱れて乱戦となった。 将軍秀忠の前まで7人が到達したようだが、 徳川家の師範の柳生宗矩に皆斬られた。 家康の本陣にも真田幸村が3度突入したが家康を討つことはできなかった。 家康の影武者は一人も残らずやられたようだ。 生き残ったのが影武者で本物の家康はやられたのかもと私は思っている。 真田幸村も力尽き、大阪城は焼けて豊臣軍は敗れた。 家康の孫で豊臣秀頼の妻の千姫が淀殿と秀頼の命乞いにいったが、 家康は助けようと思っていたが将軍秀忠はゆるさなかった。 淀殿や秀頼は命をたたれた。
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No.5646 - 2023/05/08(Mon) 11:42:20
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