| 「徳川家康 24」 山岡荘八著 講談社 読破
徳川家は豊臣家をつぶそうと思っていた。 家康は豊臣秀頼や淀殿をころそうとは思ってなかった。 ただ大阪城にいるのはおもしろくなかった。 奈良にでも国替えしようとはかっていた。 徳川家と豊臣家の仲が悪くなると 豊臣秀吉が築いた大阪城に浪人が集まりはじめた。 その数、15万人。 関ケ原で敗れて浪人していたものがたくさんいたのだ。 徳川側は30万の兵で大阪城を取り囲んだ。 豊臣恩顧の福島や加藤などは兵糧は融通してくれたが兵は出してくれなかった。 伊達政宗や毛利や島津も徳川側に加わって兵を出していた。 大阪冬の陣がはじまったのだ。 しかし、徳川側が大砲で大阪城を攻撃しはじめると 大砲に怖くなった淀殿はすぐ家康と和睦してしまった。 大阪城の濠(ほり)を埋めることが和睦の条件だった。 しかし外濠だけを埋める条件だったが内濠までみな埋められてしまった。 もう大阪城で籠城することはできない。 しかし家康が駿府に帰るとまた大阪城に浪人が集まり始めた。 家康はまた大阪城を攻めることになった。 大阪夏の陣がはじまる。
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No.5645 - 2023/05/06(Sat) 06:29:20
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