| 「徳川家康 18」 山岡荘八著 講談社 読破
関ケ原の戦いがはじまった。 家康の東軍は7万5千人。 三成の西軍はなんと10万8千人。 家康の東軍が魚鱗の陣をしいてまとまって攻撃してきたのに対し、 三成の西軍は鶴翼の陣をしいてまわりからはさみこんでいく感じだろうか。 しかし西軍の山の上に陣取った武将たちは日和見をきめこんで戦いには参加しなかった。 家康の所領は280万石だったかな。石田三成は二十数万国くらい。 本陣の陣の数が違いすぎる。 魚鱗の陣で全軍で押していけば石田三成の本陣はすぐ破れるはずだと思う。 そして日和見していた小早川秀秋の裏切りで東軍の勝ちは決まった。 小早川秀秋は石田三成の讒言(ざんげん)で秀吉に50万石くらいあった領地を15万石にされそうになり 家康のとりなしで50万石にもどしてもらった。 だから小早川秀秋は秀吉の妻ねねのおいだったと思うけど 三成や秀吉に恨みこそあれ恩はなく家康に恩があったのだ。 小早川秀秋が裏切ったのは当然のことだったのである。 三成は逃亡したがつかまり首をはねられた。 大阪城に入っていた毛利は本領安堵ということで大阪城を家康に明け渡したが 120万石くらいあった領土を30万石にされてしまった。あとのまつり。 この時の恨みが明治維新の時に爆発する。長州藩だけど。
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No.5628 - 2023/03/26(Sun) 22:17:18
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