| 「徳川家康 14」 山岡荘八著 講談社 読破
秀吉は千利休を切腹させてしまった。 千利休の茶道のわび・さびが 派手好きな秀吉には合わなかったようである。 秀吉は赤が好きで千利久は黒を好んだ。 秀吉は黄金の茶室を作ったりした。組み立て式で持ち運びもできた。 千利休の娘を秀吉が望んで断ったり、 貴人も通る寺院の門に千利休の木像を創ったり、 茶釜や茶碗に高額な金額をつけたり、 っといろいろ理由があるらしい。
1590年に秀吉が関東の北条を滅ぼして 秀吉の命令で家康が東海甲信から関東に移って来た。 1592年に家康が秩父神社を再建した。 1569年に秩父神社は武田信玄によって焼かれてしまったのだった。 家康も新たに移って来た土地だけあって人心掌握に苦労したようだ。
日本を統一した秀吉は中国を制圧しようとした。 日本にはもう褒美として家臣にやる土地がなかったのだ。 このようなことが書いてあった。 いま大明国をわれらの手中に納めておかないと ヨーロッパの諸国がこれを分け取りにして 大明も高麗も日本も南蛮人たちにムチ打たれて 奴隷船に乗せられるときがきっと来る。 その先の先を見越しての催しなのじゃ。 明治維新の頃にもつながる考え方だね。
朝鮮出兵がはじまった。 秀吉は朝鮮は中国まで道案内をしてくれるものと 思っていたがそんなはずはなく抵抗を受けた。 李舜臣によって日本の舟は次々と沈めれれていった。 補給ができない。 和睦(わぼく)するしかなくなった。
秀吉と淀殿(茶々)の子、捨丸は2才で亡くなってしまった。 秀吉の母の大政所もなくなってしまった。 秀吉は悲嘆にくれたがまた淀殿が子供を産んだ。 拾いと名付けれれたようだ。 だがこの子は秀吉の子ではないようだった。 大野修理亮の子供ではないかと思われた。 秀吉はもう60才だし子種もなかったようだった。
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No.5610 - 2023/02/26(Sun) 14:36:20
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