| 「徳川家康 13」 山岡荘八著 講談社 読破
茶々に子供が生まれた。鶴松丸または捨丸と呼ばれる。 秀吉は茶々のために淀城を築き、茶々は淀殿と呼ばれるようになる。 秀吉は喜んだ。日本を統一したら中国まで支配下に入れようと考える。 秀吉と中国を戦わせてヘトヘトになった所をヨーロッパで分け取り、 などと南蛮人などは考えていたようだ。 尾張、中村の百姓の子倅が日本一の関白、太政大臣になっていた。 家康に嫁いだ朝日は京だか大阪に帰り病没している。 家康の子、秀忠が毎日、母上様っとあいさつに来てくれるのがうれしかったようだ。 北条征伐がはじまる。 小田原の北条は籠城した。 過去に10万の上杉軍が囲んでも落ちなかった城である。 しかし秀吉の軍はその桁がちがったようだ。 小田原評定などという言葉ができたのもこの時のことによる。 北条は滅び、東海甲信から家康が関東に移ってくることになる。 秀吉としては少しでも家康を大阪から遠くへやりたかったようである。 家康は江戸に拠点を築こうとした。 その頃は人もあまり住んでないさびれた土地だった。
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No.5609 - 2023/02/20(Mon) 22:45:24
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