| 「徳川家康 8 心火の巻」 山岡荘八著 講談社 読破
信長は安土城に家康をまねいた。 接待役に明智光秀がなった。 ここで家康と光秀はかなりの話す時間があったはずだ。 光秀は信長に冷酷にされてきていて、 家康は長男の信康を切腹させられていた。 また信長の元へ毛利と戦っていた秀吉から救援要請が来ていた。 家康も秀吉の元へ援軍に行こうかと秀吉に使者を送ったと書いてある。 これは歴史的な事実なのか山岡荘八が考えたものなのか気になる。 光秀、家康、秀吉でなんか密計があったのかもしれない。 秀吉が毛利と和睦ができたのも出来すぎている。 そして光秀は信長に秀吉の援軍にいくようにいわれる。 援軍に行く直前の光秀は歌会で 「ときは今、あめがしたしる五月かな」っという歌を歌っている。 土岐氏の光秀が天下をとろうと謀反を決意した歌として有名だ。 光秀は1万の兵を信長の閲兵があるからと京へむけた。 敵は本能寺にあり 光秀は信長のいる本能寺に3千7百の兵を向け 嫡男の信忠のいる二条城に4千の兵を向けた。 信長の兵はほとんどいなかった。信長は滅んだ。 各地で戦っていた織田の武将たちは戻ってこれないと思われた。 光秀は安土城に入り、上杉、長曾我部、北条、毛利などに 使者を出したが誰が助けてくれるだろうか。 将軍宣下の勅旨にこだわりゆっくりしていた。 そこへ秀吉が異常な速さで毛利と和睦し中国大返しをやった。 安土城に招待された家康は京や大阪見物をしていて信長の訃報を聞いた。 家康は伊賀越えで苦労して三河に帰り8千の兵で上洛しようとした。 しかし秀吉が光秀を滅ぼしてしまったので帰還して 空き領地となっていた甲州、信州の制圧に向かう。 すでに三河、遠江、駿河を得ている。
|
No.5604 - 2023/02/04(Sat) 20:45:46
|