| 「史記 武帝記 二」 北方謙三著 小学館文庫 河水の南側、つまり朔方郡(さくほうぐん)を匈奴に抑えれれているゆえに 西への交通が遮断されている。 そこさえ奪還すれば西域との交易も難しくなくなる。 朔方郡にかなりの守備隊を置けば、河南の支配は取り戻せる。 いままでは匈奴を破る戦いだった。 今度の戦いは河南を奪るというはじめて明確な目的を持ったものだった。 遭遇戦ではない。 攻撃のあと、すぐに防御に徹しなければならなくなる。 制圧戦なのだ。 衛青軍三万だけで戦う。 勝ったあとのことは国境の軍がやる。砦を築くのだ。 衛青は三万の兵で数か月で河南を奪回した。 河南が匈奴の手にあったために西へむかうことができなかった。 思うさま翼を拡げられないだけでなく、 この長安のわずか八百里のところに匈奴の大軍がいたのだ。 剣を突きつけられているような気分が常につきまとっていた。 劉徹は河南の隴西(ろうせい)までの道の整備を命じた。 せっかくの衛青の勝利を確実なものとするために 劉徹は自分の脚で隴西に巡行して立ちたいのだ。 すべての民に河南をわが物にしたことを知らせたい。 長城の崩された部分の補修もはじまっている。 単于庭には十万の匈奴がいたが河南の奪回には動いてこなかった。 どうも単于(ぜんう 匈奴の頭)の体調が悪いようだ。 そして単于は死んだ。 どさくさにまぎれて再び匈奴に捕まっていた張騫は脱出して 十数年ぶりに漢に帰ってきた。 百名ほどの使節を西に送ったが十数年かかって帰ってきたのは二人だった。 大苑に二人を残してきた。大苑は漢との交易を望んでいるようだ。 大苑には漢人も結構いた。毎年数名くらい訪れているらしい。 大苑は大月氏だと思っていたのだけどどうもちがうのか? 張騫は大苑、康居、大月氏、大夏とまわってきたようだ。 劉徹はちゃんと張騫のことを覚えていて西の国の話を聞きたがった。 匈奴では新しい単于が立ったようだ。 新しい単于は言った。 {戦いをつづけるぞ。漢からすべてを奪い尽くしてやる。 匈奴の地を、南に拡げるのだ」っと。 以上166ページまで 167ページから司馬遷が出てくる。 二年くらいが過ぎたかもしれない。 衛青大勝利の第一報が入ったのは三公九卿の会議の最中だった。 王族十数名を捕え、男女一万数千を俘虜とし 家畜数十万頭を鹵獲したというものだった。 衛青は大将軍に任命されて長安に凱旋した。 これで計画通りに河南に人を移住させることができる。 大将軍となった衛青は10万の兵で北へ向かった。 将軍が6人つく。 衛青は麾下3万と売り出し中の18歳の霍去病(かくきょへい)2千騎で 縦横に駆け回る闘いがしたかった。霍去病は衛青の甥(おい)だ。 霍去病の2千騎が囮となり、匈奴1万数千騎をかき回した。 そこへ衛青5千騎が駆けつけるが敵は3万に増えていた。 また味方の5千騎が駆けつけて敵を背後から襲った。 大勝利ではなかったが匈奴の首級を4千近くあげ損害はあまりなかった。 北の脅威の呪縛が解かれると自ずからそれが見えてきた。西だ。 帝は衛青に新しい任務を与えた。 西には様々な国があるが、そこへの道は依然匈奴にふさがれたままだ。 西へ版図を拡げる。西の匈奴もまた北へ追いやる。 一方匈奴側では、 単于が死んでも次に強い者が出て単于となり国は滅びない。 なにがあろうと匈奴の軍が半分に減ろうと 衛青ひとり討てば勝ちだ。 匈奴は一万の単于の直轄軍を作った。 また衛青は10万の兵で匈奴に攻め込んで行く。 麾下の1万騎と、霍去病の2千騎が頼りだ。 前方に3万の敵、単于がいる。 他の1万騎を追いかけていったが追いきれなかった。どこかにいる。 単于は囮ではないのか。衛青はイヤな予感がした。 衛青は後退した。 しかし霍去病は敵にのまれた。例の1万だ。 衛青は霍去病の救出に向かう。 その時に衛青は肩を斬られた。 相手は17歳くらいだ。 衛青と霍去病は退却したが霍去病も2千のうち5百騎を失っていた。 追って追いきれなかった1万の軍は 夜の闇に消え、いつのまにか丘と原野の方々に潜んでいた。 そして衛青の首だけを狙っていた。 1万の兵を指揮していたのは呴犁湖(こうりこ)。単于の直轄軍だ。 衛青に斬りつけたのは17歳の頭屠(とと)だった。 匈奴にも有能な人物が現れてきている。 対峙している匈奴は十四、五万に増えていた。 霍去病の千五百騎は敵の後方に迂回した。 それが図に当たり衛青は勝利した。 ただ味方の損害も大きかった。 いずれまた闘うことになるだろう。 あの軍をどうやって相手にするか霍去病は考え続けていた。 そして霍去病にだけ恩賞が出た。 霍去病は5千の軍の将軍となった。
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No.5296 - 2021/02/28(Sun) 18:29:46
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