| 「史記 武帝紀 一」 北方謙三著 小学館文庫 読破
漢の武帝(劉徹)の時代の物語。 衛青(えいせい)の姉は帝(劉徹 武帝)の寵愛を受けていた。 低い身分の衛青はそしりをうけ縛られて 殺されそうになるいやがらせを受けたが 帝の信頼を受けて兵を指揮できるようになった。 はじめは五百だったが頭角を表し千の兵を持てるようになった。 衛青は少年の頃、一人で羊の群れを狼から守らなければならなかった。 何度となく狼は襲ってきた。 狼が現れたら羊の群れをどこへ追い込んで行くか、そして狼とどう対するか。 狼は群れを組み狡猾に動く。 その狡猾さのもう一つ上を衛青はいつも考えていた。 父の実家にいた数年間、衛青は一頭の羊も失わなかった。 一頭でも失うと面白がっていつまでも棒で打たれるのだ。 衛青の羊の群れを守ることが兵の指揮をとるスキルになったのかもしれない。 馬の乗り方も覚えていた。 千の兵で2千の匈奴を破った衛青は将軍にするといわれる。 帝の劉徹(武帝)は古い人物が死んでいくとやっと自分で命令できるようになっていく。 衛青のように家臣に取り立てることができるようになっていく。
張騫(ちょうけん)は西の大月氏と結び匈奴を挟み撃ちにしようとつかわされた。 しかし張騫は匈奴にとらわれてしまう。 張騫は匈奴の妻をもらい家庭を持つにいたっていた。
匈奴の国境侵犯はしきりである。 衛青の部隊は思った以上の成果を上げていた。 千騎から五千騎を率いる軍人となった。 奴僕であった身が信じがたいほどの栄光だった。ただし、勝てばである。 帝は衛青ら四名にそれぞれ1万の兵で遠征の準備を命じた。 国境を越えて匈奴の地に攻め込むのだ。 「戦いをすれば軍費はかかる。 匈奴を銭で飼いならせた方が得だっという考えを認める気はない」 っと劉徹は言った。
衛青は匈奴を討つため一万の兵を率いて国境を越えた。 五千は騎馬隊であとの五千は輜重を曳いた歩兵だった。 匈奴は動きの遅い歩兵を当然ねらってくる。 「歩兵は円陣を組め 輜重を防壁のように丸く並べ、 兵は戟を構えて騎馬の突入を止めろ 円陣の中に決して敵を入れるなよ」 っと衛青は命じた。 歩兵を囮に使い五千の騎馬隊を三つにわけ匈奴を蹴散らした。 衛青はもっと深く匈奴に入っていった。
四人の内三人の隊は匈奴に敗れた。 衛青からなんの連絡もないのは全滅したからだろうと思われた。 ところが衛青はリョウ城を奇襲して勝利して凱旋した。 リョウ城は単于庭の南であり、祭祀を執り行うし 匈奴にとっては最も重要な地点の一つである。 上谷から二千五百里もあるだろう。(百里が約40?q) 歩兵を補給部隊として使い千里余りを進んだ所に基地を築いた。 それから騎馬隊だけでリョウ城を駆け 大きな戦果をあげて基地へ戻り、 襲ってくる匈奴軍を騎馬隊で翻弄しながら 悠々と国境を越えていた。 本当は単于庭を狙っていたが 五千騎では兵力が足りなかったとこともなげに言ったという。 今後の匈奴との戦いに大きな展望が開けたことになるのだと劉徹は思った。 たったひとりの将軍が自分の夢を実現可能なものとした。 早く皇太子が欲しい。 匈奴との戦いに勝ち抜きたい。 河水の工事を完成させ洪水を防ぎ水運を盛んにしたい。 西にも南にもそして海へも人をやり新しいものを長安に運びこませたい。 自分が帝であることを劉徹はたのしめるようになっていた。 さまざまな抑圧の中にいた数年間がまるで嘘のようだ。
そして衛子夫(衛青の姉)は男子(皇太子)を産み皇后となった。 だから衛青は皇后の弟になるが いままでとなにかが変わったということはなかった。 衛青は三万ほどを率いて匈奴に侵攻してみろっと言われる。 騎馬五千に歩兵一万という部隊を二つ作る。 漢軍三万は匈奴軍五万に鮮やかに勝った。 (もう書く気力がない。。。)
匈奴につかまっていた張騫は匈奴を抜けて やっと大月氏につくことができた。 匈奴で17人で脱出したが 大月氏についた時は7人になっていた。 沙漠や山越えが非常に困難だったのだ。 匈奴に見つからないように一番大変な道を通ってしまったようだ。
匈奴を挟み撃ちにしようと漢から派遣された張騫だったが 大月氏は匈奴と戦う意思はもってなかった。 戦いの気配はどこにもなく平和に暮らしていた。 ただ大月氏の王は漢との交誼を望んでいる。 張騫は二人を残し漢へ帰ろうとする。 張騫が漢を出て10年以上経ったであろうか。
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No.5295 - 2021/02/26(Fri) 13:03:03
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