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クラシック映画BBS2

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『バーレスクの貴婦人』(1943) / Ismael
原題はLADY OF BURLESQUE。
大阪の某名画座で『バーレスクの貴婦人』というタイトルで上映されたようなのでこちらを使いました。

MGMで『巨星ジーグフェルド』や『北西への道』を製作した大物プロデューサー、ハント・ストロンバーグが独立後自分のプロダクションで製作した第1作。
原作はあのジプシー・ローズ・リーの小説 THE G-STRING MURDERS、主演バーバラ・スタンウィック、監督ウィリアム・ウェルマン。
かなりヒットしたそうです。

スタンウィックの役名は、原作とは違ってディキシー・デイジー。

推理モノとしては?ですが、半裸の女性が大挙出演しているのがヒットの理由でしょうか?

ストロンバーグのプロダクションは、結局余り多く製作しませんでしたが、ヘディ・ラマール主演、ウルマ−監督ののSTRANGE WOMAN(1946)や同じくラマール主演のDISHONORED LADY (1947)、リザベス・スコットのTOO LATE FOR TEARS (1949)など興味深い作品がありますが殆どが日本未公開ですね。
まあ、GHQが喜びそうな内容ではないですが。

あらためてスタンウィックの芸域の広さと、そのハードボイルド?な芸風に感嘆しました。


No.405 - 2015/03/25(Wed) 15:59:48
レスを分けました 『ゲームの規則』批評について / B&W
> B&Wさま
>
> 『ゲームの規則』
>
> この作品の評で印象的だったのは、ゴダールのジャン・ルノワール論(ゴダール全集)とかトリュフォーのルノワール論(こちらの掲載本は失念)でしょうか。
> ルノワールの自伝では何か言ってますか?
>
> 『シンス・イエスタディー』
> この人のハリウッド映画評はやや一方的な気がします。
> 左翼分子が最も多かったワーナーのギャング映画をどう思っていたのでしょう?
> あるいは、スタンウィックの『ステラ・ダラス』とか。
>
> また、何故ヘイズ・コードが成立したのかについて何か述べていますか?



Ismael様
レスありがとうございます。
※これはIsmael様のNo.401 - 2015/03/14(Sat) への返信です

ゴダールのジャン・ルノワール論とトリュフォーのルノワール論ですね。どのように「印象的」だったのでしょうか。Ismael様からの視点でお聞かせ願えませんか。

> ルノワールの自伝では何か言ってますか?
これはご自分で読んでいただいた方がいいと思いますね。借りることもたやすいと思いますよ。
とりあえず、手元にあるバーガンの伝記(これも自伝やインタビューに基づいていますが)から引くと
【引用】
(前略)ジャンの考えでは「火山の上で踊る」人々の描写があまりにも真実を伝えすぎていたために、観客は居心地が悪かったのである。「みんなそこに自分自身の姿を認めたのだ。CENSOREDしようとする者でも、人の見ている前でCENSOREDしたいとは思わないさ」

・・・ということでしょうかね。

> この人のハリウッド映画評はやや一方的な気がします。
どうしてそう思われたのでしょうか。

最初にご紹介したとおり、『オンリー・イエスタディ』も『シンス・イエスタディ』も、映画の本では有りません。1920年代・30年代の米国民衆史であり、20〜30年代の基礎知識といったようなものです。一刀両断に切り捨てている部分は多いでしょうね。もともと文化・風俗について語るに、小説もあるし、ラジオもあるし、雑誌・新聞も有るし、その中に映画もある、ということで、紙幅もそれほど費やされていませんからね。

『シンス・イエスタディ』はお断りしたとおり、「ちょっと先回りしてのぞいた」ので、まだ、『オンリー・イエスタディ』を読んだりしているところなんです。一つ、ご提案しますが、英文テキストは公開されていますので、「Will H. Hays」や「MPPDA」や「Joseph Breen」などで検索してその前後を読まれてはいかがですか。日本語訳を借りられてもいいと思います。
『シンス・イエスタディ』の索引にはヘイズはないので、登場しないかもしれませんね。

ジョゼフ・ブリーンとMPPDAについては、私が先の投稿でちょうど引用しなかった部分で触れられています。

映画に投資した資本家は、国の内外を問わず、映画好きの人たちの気に障るような危険性のある厄介な問題は、避けた方がいいと考えていた。一九三四年の全米倫理連盟によるキャンペーンの結果、ジョセフ・ブリーンがアメリカ映画製作配給協会(MPPDA)の会長に就任し、キスシーンを延々と見せたり、男の子が素裸で水浴びをしたり、“ちくしょう!”とか“くそっ”などというせりふを吐く登場人物が出てくる映画は、すべて製作前に検閲をすることになった(この倫理連盟キャンペーンはたちまち効果をあげ、検閲反対の立場からは奇妙な話だか、有益に作用したのである。検閲は、一九三五、三六年に、これまでになかった優秀な映画製作に着手しようとするプロデューサーをおびえさせた)。――『シンス・イエスタディ』より

登場するのはここだけのようなんですけどね。

ウィル・H・ヘイズについては『オンリー・イエスタディ』では2ヶ所で扱われています。第5章と第6章です。映画の検閲と言う部分では第5章ですね。第6章ではハーディング大統領のティーポット・ドーム事件(スキャンダル)を扱っていて、ここでウィル・H・ヘイズは上院で証言しているのですが、そのスキャンダルの一部始終の話です。

> また、何故ヘイズ・コードが成立したのかについて何か述べていますか?
これを扱っているのは『オンリー・イエスタディ』の第5章になると思います。服装とか、スカートの長さの変遷とか、断髪、化粧、喫煙、飲酒、ダンス、女性の自立、性道徳(“ウィーンからやってきた”フロイト主義)と、この時代に起きた「モラルの革命」を扱っています。

適当な抜書きをすると(全体を読んだ方がいいと思いますけど)
【引用】
さまざまな力が同時に作用し、互いに影響し合って、こうした革命が避け得ないものになったのである。
第一に挙げられるのは、戦争および戦争の終結によってもたらされた、人々の精神状態である。兵隊が訓練キャンプや前線に出発するときに陥るあの「食いかつ飲んで楽しくやろうぜ、どうせ明日は死ぬんだ」という気分に、この時代の全ての人びとが感染していた。戦争によるにわか結婚だけでなく、非常識な密通行為も流行していた。(後略)

(前略)戦時の圧迫下で、自衛手段として新しいおきてを身につけた連中もいた。何百万人かのそうした青年達は、感情興奮剤を与えられたようなもので、容易にやめられなくなっていた。彼らのかき乱された神経は、スピードと興奮と情熱という鎮痛剤を求めていた。戦争は若者から、バラ色の理想に満ちた楽観的世界を奪っていた。(後略)

(前略)生活のしかたとモラルの革命を促したさまざまな力のなかで、これまでに述べた以外のものは、すべて100パーセントアメリカ的なものであった。すなわち、禁酒、自動車、告白雑誌およびCENSORED雑誌、それに映画である。(後略)

(前略)教会団体から轟然たる非難がわき起こったので、映画製作者たちは、一九二〇年代初期に、ハーディング大統領のもとで郵政長官の職にあったウィル・H・ヘイズに、モラルおよび美的感覚に関する仲裁役を依頼した。ヘイズは、万事うまくおさめることを約束した。(中略)ヘイズには、何かしら生まれつきの才能があって、どうにか教会関係者の攻撃をくいとめることができた。(後略)

(前略)新しい道徳律は、前後の幻滅感の中から生まれた。だから、新しいモラルの代表者たちのから威張りや新時代の到来を告げることばの底には、やはり根強い幻滅感が漂っていた。もし、この十年間を無作法な時代というならば、それは同時に不幸な時代だともいわねばなるまい。人生に意味を与え、豊かにしていた価値体系は、古い秩序とともに失われ、それに代わる価値は容易に見つからなかった。(後略)

(前略)新しい道徳律をつくり出すには時間がかかる。革命家達がふたたび、自分たちの世界に戻り、とらわれていた性の問題から抜け出して、慣習や基準の変化に対して、感覚的な調整を行ない、新時代のより自由でより率直な生活を享受し、旧制度の崩壊のなかから、今後新たに継続していく満足の新体系を発見するのは、この十年間も終わりに近づいてからであった。
【オンリー・イエスタディ より】

これはF・L・アレンの見方ですけどね。この文章自体は1931年に書かれたものです。この立場で言えば、ヘイズ・コードは“今後新たに継続していく満足の新体系”なんでしょうな。文中の含意としては、ウィル・H・ヘイズが「倫理を監督する」なんて言うのは茶番で、ダーティな映画というメディアには、ダーティなヘイズが調整役としてはうってつけ、と言うような感じですね。映画の煽情性(=売り上げ)も落とさず、教会の圧力を上手くすり抜け・・・と言う感じでしょうか。

全部読めていないので書きにくいですが、ギャング映画についてはありませんが、ギャングそのものについては記述があります。アル・カポネとかディリンジャーとか。他でも映画で描かれる道徳倫理について、おそらくタイトルを引用したりスターを出したりして散在して触れているとおもうので、本自体を読まれたほうがいいですね。

F・L・アレンという人は、啓蒙主義というか、理想家肌なんだろうなと感じます。ウィルソン大統領にひどく同情的というか、思い入れをこめて描いていますね。

私は『ウィルソン/Wilson』(ヘンリー・キング/Henry King 1944)を見ましたが、これはプロデューサーのザナック/Darryl F. Zanuck(1902-1979)の思い入れが強い作品のようです。『紳士協定/Gentleman's Agreement』(エリア・カザン/Elia Kazan 1947)でアカデミー作品賞を受賞した時に、ご本人いわく「本当はWilsonで受賞するべきだった」といったとか。ちょっと調べが行き届いていないんですが。

見た感じでは第28代アメリカ大統領は、天皇みたいですね。王族のようです。元々が教育者であるせいかもしれません。レビューで描かれる恋愛があっさりしているとありましたが、ウィルソンは血肉ある人物伝記映画というより、アメリカの理想や理念の体現者として非人格的に描かれているように感じました。アメフトが出てきて、それなりに仕立てているのですが、なんか薄いと言うか。演じたアレクサンダー・ノックス/Alexander Knoxの味なのかもしれませんが。ルース・ネルソン/Ruth Nelsonが最初の大統領夫人を演じていて、マルセル・ダリオ/Marcel Dalioが第40代仏首相のクレマンソー(1841-1929)を演じています。ダリオはチョイ役ですがこの砂をかむような味気ない映画の中で“カリカチュアライズ”というものを一瞬味あわせてくれました。
No.402 - 2015/03/15(Sun) 12:31:23
Re: レスを分けました 『ゲームの規則』批評について / Ismael
B&Wさま

>
> Ismael様
> レスありがとうございます。
> ※これはIsmael様のNo.401 - 2015/03/14(Sat) への返信です
>
> ゴダールのジャン・ルノワール論とトリュフォーのルノワール論ですね。どのように「印象的」だったのでしょうか。Ismael様からの視点でお聞かせ願えませんか。


トリュフォーの方は手元にないのでうろ覚えですが両者ともルノワール擁護派です(あたりまえといえばあたりまえ?)。

ゴダールの方は、『ゲームの規則』ではなく『スワンプ・ウォーター』の評ですが
引用開始:
才能とは火事のように生まれるものだ、とどこかでマルローが書いている。自分が燃やすものから生まれるのだと。『ゲームの規則』が発表当時に理解されなかったのは、それが火付け役だったからだ。『ランジュ氏の犯罪』(35年)を破壊していたからである。
引用終わり

>
> > ルノワールの自伝では何か言ってますか?

大したことは言っていませんね。
たった6ページです。
ルノワール自身はこの作品を喜劇にするか悲劇にするか撮影中ずーと悩んでいたとあります。


> > この人のハリウッド映画評はやや一方的な気がします。
> どうしてそう思われたのでしょうか。
>
> 最初にご紹介したとおり、『オンリー・イエスタディ』も『シンス・イエスタディ』も、映画の本では有りません。1920年代・30年代の米国民衆史であり、20〜30年代の基礎知識といったようなものです。一刀両断に切り捨てている部分は多いでしょうね。もともと文化・風俗について語るに、小説もあるし、ラジオもあるし、雑誌・新聞も有るし、その中に映画もある、ということで、紙幅もそれほど費やされていませんからね。


まあ、やはり読まないでとやかく言うのは良くないですね。反省。

ただ30年代は、トーキーの本格化、ヘイズ・コードの成立、反トラスト法違反という映画にとって非常に大きな変化があった時代ですよね。このあたりを筆者はどう考えたのかなあと思った次第。
No.403 - 2015/03/16(Mon) 18:10:34
Re: レスを分けました 『ゲームの規則』批評について / B&W
Ismael様
> まあ、やはり読まないでとやかく言うのは良くないですね。反省。
というか、もともと私が読み終えてもいないのに御紹介するのが間違いなんですね。反省。

> 『ゲームの規則』が発表当時に理解されなかったのは、それが火付け役だったからだ。
わかるようなわからないような。主題なのか表現手法なのか。ゴダール/Jean-Luc Godardは1930年のパリ生まれですね。

> 大したことは言っていませんね。
> たった6ページです。
> ルノワール自身はこの作品を喜劇にするか悲劇にするか撮影中ずーと悩んでいたとあります。


わざわざ済みません。そう、色々述べているのですが肝心なことは書いていなくて、「もうちょっと、ヒント・・」と思った記憶があります。というのは、手元になくて、というか、見つけれらなくて。バーガンは見つかったんですけど。
なんとなく感じるのは、同時代に生きていれば難なく解ることが、遠い場所の遠い時間にいる私には解ってないんだろうな・・・と思うんですよ。

1962年の監督自身の作品解説動画では、芯が腐った社会とか “some fine little catastrophes” とか述べていますね。映画のテーマは、というとそういう事になるんでしょうね。『獣人』の自然主義リアリズムから離れたかった、古典に立ち戻りたかった、フロベール以前にさえ戻りたいと思った。ミュッセ、マルボー、ボーマルシェ、モリエールの古典に倣いたかった。なんにでもいえることだが、古典に倣うのならば、その精華・爛熟の頂点に倣うことが肝心だ・・・それはそうなんでしょうけれども。

この映画って上手いですよね?わざわざこんなこと書くのもバカみたいですけど。上手いんだけれども上手すぎて、なんか魔的なものになっている様に思うんです。ルノワールだから、まなざしが暖かいんですけどね。でも、見終わって思い返すと魔術的なものに変っている。見た人のなかに映画が残って、魔的なものに成長していく様に思います。

予言のつもりはないんでしょうけど、予言になっていますしね。ご本人にそんなつもりはなかったんでしょうけどね。私はこの映画を「人間喜劇」―バルザックのような―とは見られないです。allcinemaの「ルミちゃん」さんのような見方もできないですね。やはり当時の時局や政治に照らして考えてしまいます。

ファシズムっていうと、皆さん良くないものだ、ファシストは憎むべきものだと言うんですが、ファシストがどんな顔をしていますかって聞くと、ヒトラーとかムッソリーニをあげますよね。でもファシズムをそれら少数の人物像だけであらわせるはずもなく、それは真実から遠ざかってしまうと思っています。

※以下「護国団」のことなど、「1930 年代初頭におけるオーストリア護国団運動の分裂過程/古田善文」やWikiなどで知ったことが中心です。
ttp://ci.nii.ac.jp/els/110008765646.pdf?id=ART0009840917&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1426737574&cp=

ノラ・グレゴール(Nora Gregor)と結婚したファシストのシュターレンベルク公爵(Ernst Rüdiger Camillo Starhemberg 1899-1956)は、第一次世界大戦ではイタリア戦線に従軍し、竜騎兵部隊を指揮して勲章を受けています。1918年に退役して領地の農園の略奪者に対抗するために自警団を組織したそうです。それが後に護国団(Heimwehr)となり、大公はその指導者になるんですね。護国団は貴族・退役軍人・経営者・武装農民などで構成された保守系住民(反ウィーン)の準軍事組織で、マルクス主義打倒・議会制民主主義否定・キリスト教的「身分社会」を志向していたそうです・・・実態は混沌としたものだったようですが。

大公は1936年に護国団が解散させられた後1938年ナチスに追われて亡命し、ナチスドイツに公民権を剥奪され財産を没収されます。スイスを経てフランスに落ち延びてから自由フランス空軍に一時参加したそうです。反ナチスのオーストリア軍人をまとめる役目だったとか。
自由フランス空軍では中尉に任じられたが、1941年にベルギー領コンゴへ送られる際、英国では「民主主義を抹殺したこんな悪党を我々(=英国・自由フランス)の仲間に加えるなんて」と激しい反対にあったそうです。

ジャン・ルノワール(Jean Renoir 1894-1979)も1913年に入隊した時は竜騎兵部隊なんですね。馬が大好きだったそうです。その後子供の頃から憧れていたアルプス猟歩兵部隊の少尉として第一次大戦に従軍。1915年に足をひどく負傷し、その後飛行部隊に再度入隊して観測員として飛行機からの敵陣撮影に従事します。ドイツ軍に急襲されますが、そのときに最新鋭機イスパノ=スイザ・スパッドで飛来し、助けてくれた命の恩人が後のパンサール将軍(Armand Pinsard 1887-1953・・・後にナチ協力の戦犯として終身刑。恩赦で出獄)だそうで、『大いなる幻影』―軍服と軍隊への賛美に満ちた反戦映画―に強く影響しているそうです。
無性に飛行士にあこがれたジャンは航空兵学校に入り、ダイエットして飛行士試験に合格、偵察飛行中隊に配属されますが、足の負傷が悪化して中尉で除隊するそうです。

ルノワール監督は騎士道精神というか“ノブレス・オブリージュ”的精神が好きだったのかなと思います。『ゲームの規則』では、飛行機乗りで若き英雄のローラン・トゥータンは、ウサギ狩りのウサギのように射殺されますけれども。騎士といえば、シュターレンベルク公爵は金羊毛騎士団(ゴールデン・フリース)に列せられている真正な騎士ではありました。

これだけではなんなので、最後まで大公の軌跡を追うと・・・
ムッソリーニの信奉者でファシストのホアン・ペロン大統領が統治するアルゼンチンで、大公は亡命生活を送り、1953年ウィーンの法廷で大逆罪はなかったと裁定、1954年に財産返還、1955年9月にクーデターでペロン大統領が失脚亡命し、大公はその年の12月にオーストリアに帰国します。翌年3月に心臓発作で死去。享年56。
1942年に大公は自伝を出しています―― 「Between Hitler and Mussolini: Memoirs」 ( Prince Ernst Rudiger Starhemberg著 HARPER & BROTHERS刊 1942) 

1949年1月に妻のノラがCENSOREDしますが、大公はその年の7月インタビューに答えて「もし公正な裁判が保障されるなら、帰国して喜んで大逆罪の告発を受けてたつ。私の犯した過ちが何であったにせよ、私は1933年から1938年の5年間をオーストリア自治のためにささげ、ヒトラーと長期の戦いをしたことを誇りに思っている。」と述べて無罪を主張したとか。

1934年2月のオーストリア内乱で捉えられ、即決軍事裁判にかけられた、社会民主党国会議員のコロマン・ヴァリッシュ(Koloman Wallisch 1889-1934)も、やはり裁判長から罪を認めるか、と問われています。「郷土防衛隊指導者シュターレンベルクが有罪ならば、その場合にのみ自分も有罪である」と答えたとか。享年44。

裁判でヴァリッシュはこう答えています。
「国会閉鎖以降は立法権と執行権は一人の人物の手中にありました。憲法裁判所は廃止され、労働者の選挙権は剥奪され(中略) 党は常に平和的に行動しましたが、チロル州で郷土防衛隊の挑発が続きました。(中略)労働者たちはそうした状況の中で蜂起を強いられたのです。彼らは憲法を護り、自分たちの権利を擁護しようとしたのです。(中略)私が有罪判決を受けざるを得ないことはよく分かっていますが、恩赦の申請はしません。恩赦など必要ありません。(中略)私は 1905 年以来の社会民主党員です。私は社会民主主義者以外であったことは一度もありません。私は労働者のために全生涯を捧げてきました 。(中略) 私が労働者のために誠実に戦い、しかも彼らと共に成功を収めたので、敵の憎悪の念は非常に強かったのです。人はいかなる行為も覚悟しなければなりませんが、自己を犠牲にする、という覚悟もしなければならないのです。」(引用―オーストリアにおける1934年2月蜂起とコロマン・ヴァリッシュ/伊藤富雄)

“芯が腐った社会”で、騎士道など生き残る術もなく。ヴァリッシュは判決が出た3時間後に絞首刑に処せられます。『ゲームの規則』の幕切れは、ラ・シュネイ侯爵がジュリユーの死を「単なる事故で、運が悪かった」と片付け「風邪をお召しにならないよう、屋敷にお戻りください」と述べて終わります。これが“touch of class”ということなのか・・・。


> ただ30年代は、トーキーの本格化、ヘイズ・コードの成立、反トラスト法違反という映画にとって非常に大きな変化があった時代ですよね。このあたりを筆者はどう考えたのかなあと思った次第。

米国映画にとっては30年代に大きな変化があるのかもしれませんが、アレンの著書ではどちらかというと、20年代のラジオの普及がもたらした生活の変化、国民思想への影響の方が前面に出てくる印象ですね。いずれのメディアも一通り触れられていますけれども。新聞・雑誌・ラジオ・文学・音楽・演劇・写真・映画と。ユージン・オニール/Eugene O'Neillの『奇妙な幕間狂言/Strange Interlude』(1928)やらマクスウェル・アンダーソン/Maxwell Andersonの戯曲『目撃者/Winterset』(1935)やら上げられているし、映画でいえば『仮面の米国/I Am a Fugitive from a Chain Gang』(マーヴィン・ルロイ/Mervyn LeRoy 1932)や『They Won’t Forget』(ルロイ 1937)などは社会の真実を描いているとされています。

映画タイトルやスターの名前はアチコチに頻出するんですが、ハリウッド・モグルの名前はそういえばあまり出てこないような・・・。
つまるところ、F・L・アレンはジャーナリストなので、おしなべて全ての事象がジャーナリスティックな視点で描かれているのかな・・・そう思います。
No.404 - 2015/03/19(Thu) 19:58:59
読みもしないで失礼ですが / B&W
皆様

本当ならこの時期、アカデミー賞作品の話などをするべきなのでしょうが、何も知らなくて・・・ちょっと埋め草で本の話を。
と言うのもたまたま密林をウロウロしていて、ビックリするようなレビューを読んだからです。

福井次郎と言う方が書いた、
>『カサブランカはなぜ名画なのか〜1940年代ハリウッド全盛期のアメリカ映画案内』(2010年 彩流社)
と言う映画本です。

>ttp://www.amazon.co.jp/review/R237XSIK3CE2/ref=cm_cr_dp_title?ie=UTF8&ASIN=4779110645&channel=detail-glance&nodeID=465392&store=books

「主に第二次世界大戦とユダヤ人問題との関係について書かれていますが、内容は今一つ。」とのレビューですが。

わたしはこの本は読んでいません。なので、読んで確かめてから投稿するべきなんでしょうが・・・レビュワーの方が指摘している「初歩的な勘違い」には驚きました。Ismael様の「あきれた解説文」(No.383 -2015/02/14)の比ではありません。編集はチェックしないんでしょうかね?

この方は
>『「戦争映画」が教えてくれる現代史の読み方 キーワードはユダヤ人問題』( 2007年 彩流社)
と言う本も書いておられますが、余計なお世話ですが、適切に扱われているんでしょうか(汗)。

私は
>『ベルリン音楽異聞』(明石正紀著 2010年 みすず書房)
という本を斜め読みしたのですが、この本には第2次世界大戦中の「(在ドイツ)ユダヤ文化同盟(Kulturbund Deutscher Juden/i.e. Jewish Cultural Federation)の話が出てきます(写真も載っています・・・ベルリンのみですが)。

※ユダヤ文化同盟は1933-1941年に存在したユダヤ系市民を締め出すことを目的としたユダヤ教徒のみの文化団体だそうです。ユダヤ系市民のクルト・ジンガー(Kurt Singer)が進言してナチ政府の許可を得て設立したのだそうで。

※現在も語り継ぎ、その意志を継承するプロジェクトがあるようです。
>The Jüdische Kulturbund Project
>ttp://www.judischekulturbund.com/


私が気になるのは福井氏の本のタイトル「ユダヤ人」なんですね。明石氏のご本から引用すると

>【引用】何しろ本人たちは、ドイツ語を母語とし、ドイツ文化を自らの文化とする立派なドイツ人だったのである。ほかの多数派のドイツ人との違いは、彼らがキリスト教徒ではなくユダヤ教徒である、あるいは先祖にユダヤ教徒がいたということぐらいだ。あたりまえのことだが、純血オタクのヒトラーが二項対立的な両極概念として唱えた「ユダヤ人種」も「アーリア人種」も存在しようがないし、ユダヤ人というのはキリスト教徒や仏教徒に対応する宗教上の区分けにすぎない。(・・・略・・・)問題は、十九世紀末の狂った反ユダヤ主義に端を持つこのヒトラーの人種神話が何度となく繰り返されるうちに信じられてしまったということであり、もっと大きな問題は、今でもこの倒錯したナチ人種神話を受け売りにしている人々がいるということである。【引用終わり】

ということで、後述で無理やりな「アーリアだ」「ユダヤだ」の区別・差別で混乱するナチ音楽業界の、噴飯もののすったもんだが紹介されています。

もう一冊、本をご紹介します。
>『オンリー・イエスタデイ―1920年代・アメリカ(1931)』(F・L・アレン ちくま文庫 1993)

1920年代のアメリカの民衆史というか、ジャーナリスティックな視点で様々な政治経済風俗の10年間の移り変わりを記述したものです。私もまだ読み始めたところなんですが・・・遅々として進まず(汗)。
本自体はとても面白いものです!私が怠惰なだけで。
これを読んでいると、第一次大戦後を契機として愛国思想〜ファシズムが一般的になり、ボルシェビキと“国際的ユダヤ人”が、ありもしない風評を流され、パニックを起こすほど怖がられたんだな、と感じます。

これには続編の『シンス・イエスタディ』もあり、こちらは1930年代のアメリカ民衆史のようです。
英語の読める方であれば、グーテンベルグで公開されています。

http://gutenberg.net.au/plusfifty-a-m.html#allenfl

古い映画を見る方には、当時の世相や常識などを知るうえで参考になると思います。映画とは無関係に読み物としても面白いと思いますね。

福井次郎氏は
>『映画産業とユダヤ資本 』(早稲田出版 2003年)
と言う御本も執筆されていますね。私があまり気にかけずにいた方面の話をいろいろ知ることができるかもしれません。いずれ読める日が来るように、ともかく今読書中の本をがんばって読んでしまわなければ・・・。

そうそう、『オンリー・イエスタディ』は前書きに、第一次大戦によって町に軍服姿があふれ、

>【引用】「・・・どんなパーティにも、外国の軍服姿が加わっていて、戦時のロマンスの香りを漂わせる。もっと照明を暗くした棕櫚の陰で、一組か二組の若い男女が恋愛遊戯にふけっていたとしても、そのことにスミス夫妻はまったく気がついていない。F・スコット・フィッツジェラルドが、若い世代の問題を提起して、人々を戦慄させるのはまだ後のことである。」

と書いてあって、これは映画の『昨日』(Only Yesterday /John M. Stahl/1933)のモチーフなんですね。スタール監督はきっとリアルタイムでこの本の読者だったんだろうなんて考えていたら、Wikiにちゃんとそのことも書いてありました。映画の主になる筋はツヴァイクの『見知らぬ女からの手紙』なんですけどね。

明石氏の『ベルリン音楽異聞』はヒンデミットの話とか・・・オペラの話とか、面白い話がいろいろあります。音楽映画というか、オペレッタ映画を見る上で、そういう音楽の素養がないと本当には理解できないのかなと思えてきました・・・私は音楽は全然明るくないのですが(汗)、どんな分野でも、詳しくは無くとも有る程度初歩的な素養は持っていないといけないものなのだなと痛感しています。
No.392 - 2015/03/03(Tue) 22:32:38
Re: 読みもしないで失礼ですが / Ismael
B&Wさん


> わたしはこの本は読んでいません。なので、読んで確かめてから投稿するべきなんでしょうが・・・レビュワーの方が指摘している「初歩的な勘違い」には驚きました。Ismael様の「あきれた解説文」(No.383 -2015/02/14)の比ではありません。編集はチェックしないんでしょうかね?

書店に行くととんでもない映画関連本がいっぱいありますが、そのほとんどは、カルチュラル・スタディーまがい本ですね。

私の「あきれた解説文」の一件とか、戸田奈津子の常識があれば起こりえない字幕の誤訳とかですが、完璧な人間は居ないわけで、間違いは起きて当然なのでその事自体を目くじらを立てて批判する気はないのですが、それをチェックできない(しない?)体制のほうが大きな問題だと以前から感じています。

福島原発事故に関する東電の態度とか、最近国会で取り上げられている政治献金の件とどこか根っこでつながっている気がするからです。
No.393 - 2015/03/04(Wed) 11:22:41
Re: 読みもしないで失礼ですが / B&W
Ismael様

お返事ありがとうございます。

>完璧な人間は居ないわけで、間違いは起きて当然なのでその事自体を目くじらを立てて批判する気はないのですが、それをチェックできない(しない?)体制のほうが大きな問題だと以前から感じています。

レビュワーの方が指摘している「勘違い」は、明らかな間違いなので、フィルムノワールの呼称の定義と言った、グレーな部分の有る話ではないんですよね(それだってIsmael様ご指摘の“説明”はいくらなんでも曲説とは思いますけれども)。当該の著作は映画本・教養本として販売されているので、「看板に偽りあり」といわれてもしょうがないと思います。
・・・たしかに下読みなどでチェックするシステム(=しくみ、体制)があれば防げることですよね。

それで思い出したのですが、間違いというか・・・マグカップ様が紹介したエピソード「ウェインとボガートの確執」にも似ている、「風説」に属することで、ちょっとこれは不正確なんじゃないか?と思ったことがありました。

>『ジャン・ルノワール 越境する映画』(野崎 歓著 2001年 青土社)
です。今調べたらこのご本は2001年度のサントリー学芸賞を受賞しているんですね(汗)。
http://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_ssah/detail/2001sf2.html

私はそのことは今知りました・・・ともかく、この本の中で『ゲームの規則』(La règle du jeu 1939)の撮影をめぐる話が出てくるのですが、ノラ・グレゴール(Nora Gregor 1901–1949)を「ほとんど素人同然の女優」と言っているのです。これを読んだ時はええーっと思いました。私の好きな女優さんだし好きな映画なので、気になったのです。
確かにノラ・グレゴールは49歳で早世し、生涯で25作品しか出ていないし、その中で知られているのは『ミカエル』(Michael 1924)『オリンピア』(Olympia 1930)『ゲームの規則』ぐらい?なのでしょうがないのかもしれません。でも、時代は下りますが50歳で亡くなったヴェロニカ・レイク(Veronica Lake 1922–1973)はTVも含めて38作に出演していますが、「素人同然」とまでは言われないと思います。

このご本ではルノワールがノラ・グレゴールに惚れちゃって、素人同然で演技の訓練を受けていないけれども主役に抜擢したという様に書かれていました。要するにノラ・グレゴールには演技力がない、下手だということなんでしょうけれどもね。allcinemaのレビューでも「ちりちりパーマ」とか貶されていますし、他でもオーラがないとか魅力がないとか概して不評ですね。ルノワールの自伝を読むと、監督は「彼女のまじめ人間なところを生かしたかった」と語っていますけれども。当初はシモーヌ・シモン(Simone Simon 1910–2005)にオファーしたけれども出演料が高すぎて断念したそうです(・・・今見ると、Wikiにも大体こういった挿話が書いてありますね)。

最近でこそ下がってきましたが、ちょっと前までは『ゲームの規則』はベスト3や5には必ず入っている名画と言う認識だったと思います。ルノワールの代表作であることは間違いないと思うのですが、その主演女優にしてもこういう認識で映画のことが語られちゃうのかな、とちょっとがっかりしました。

Epinionsでも・・・“Nora Grégor was an actual Austrian princess – Princess Stahremberg – with no prior acting experience.”なんて書かれています。いい加減ですね。
他でも・・・男達のobsessionsになるには、アルレッティ(Arletty 1898–1992)のようなカリスマ性のある女優が適役なのに、ノラ・グレゴールは“She flutters, she pouts, she trembles. She has the mannerisms of a custard pudding.”といわれる始末です。こちらは言い得て妙ですが(笑)。
ttp://thegirlwiththewhiteparasol.blogspot.jp/2011/09/miscastings-in-classic-film.html

ところで、私は『ゲームの規則』のレビューを読んで感心したことがありません。どなたか、このレビューはよかったとか、よく調べているとか新しい視点があるとか教えていただければ幸いです。
No.395 - 2015/03/05(Thu) 00:40:00
Re: 読みもしないで失礼ですが / マグカップ
B&Wさん、こんにちは。

>ところで、私は『ゲームの規則』のレビューを読んで感心したことがありません。どなたか、このレビューはよかったとか、よく調べているとか新しい視点があるとか教えていただければ幸いです。

私は10年ぐらい前に観ました。高級感は感じましたが、面白さはよく理解できませんでした。

「20年後くらいに観たら理解出来るかもしれない人間喜劇。」 (LUNA氏) 

「当時の上流階級の洗練された生活や上品なスタイルが伝わってくる。表面的な優雅な美しさに対して 実際は利己的で無節操 他人に対して鈍感な内面が暴かれる」 (ルクレ氏)

CinemaScape−映画批評空間−より。

この2つが私の感想に近いです。 私も10年後ぐらいにもう1度観ようと思います。
No.397 - 2015/03/08(Sun) 17:04:57
Re: Dancing “Idiots” on a Volcano / B&W
マグカップ様
お返事ありがとうございます。レナード・ニモイ氏の訃報に反応できなくて(ネタが無くて)すみません(>_<)

マグカップ様の『ゲームの規則』評は私も拝見した記憶があります。2008〜2010年ごろではないかと思ったのですが、旧掲示板では2005年の10月にコメントされていますね。わたしもマグカップ様と同じような感想を持っていましたので、印象に残っています。実はマグカップ様の『ゲームの規則』評はずっと引っかかっていたし、それでこの作品を見直そうと思ったのでした。

allcinemaのレビューを読むと「ルミちゃん」さんが、登場人物の心理や行動に沿ってその意味を明らかにするような、“作品論”的なアプローチで書いておられますね。
私はこの映画をファース(笑劇)と感じるので、人物の心理や行動の意味や善悪を考える気持ちになれないんです。むしろこの映画が成立した時点での「時代精神」とか、やはり「時局」と照らし合わせてあれこれ考えた方が味わいが有る様に思っています。

当時のヨーロッパの社会情勢(ってっても良く知らないんですが)に当てはめて、あれこれ考えています。そういうアプローチでやっとこの映画を自分なりに見ることが出来る様になったと思っています。そういうアプローチをするようになったのは主演のノラ・グレゴールがきっかけで、その生涯を色々調べたり読んだりする中で、オーストロファシズムのことなどを知ったことによります。

ロナルド・バーガンの『ジャン・ルノワール』(1996 トパーズプレス)を引っ張り出して読み返してみたのですが、この映画については、

・『獣人/La Bête humaine』(1938)の自然主義的リアリズムを離れ、古典的・詩的・ロマン主義的なものを取りたいと思った
・原案はミュッセの「マリアンヌの気まぐれ」やボーマルシェの「フィガロの結婚」などである
・バロック音楽を聴いているうちにその音楽にそって人物が動き回るような映画を撮りたいと思った
・配役は結局当初の思惑通りに使えた俳優は密猟者で召使になるカレットぐらいで、他は全部、構想とは異なる俳優を使うことになり、俳優に合わせて脚本を練るルノワールにとっては書き直しを余儀なくされてばかりいた
・悪天候で遅延に次ぐ遅延で予算超過した
・元々はカラーで取りたかったが、製作年当時の技術では無理であった

・・・などなどが述べられています。

以下は私の個人的な経験と夢想になるのですが、最近たまたま『たそがれの維納/Maskerade』(ヴィリ・フォルスト/Willi Forst 1934)を見ていて、なんとも言えない気分になりました。『ゲームの規則』の陰画―『ゲームの規則』“が”陰画なのか−を見ているような気分になったのです。

どちらの作品も、ピストルでの殺傷事件があるし、温室が重要な場面で使われます。どちらも“とりちがえ”が重要な劇的装置として作用します。
『ゲームの規則』は第二次世界大戦前夜に公開され大コケします。対するに『たそがれの維納』は1934年のオーストリア2月内乱―オーストリアの議会政党制が封殺された−の時期に、監督のフォルストがこの作品の構想を練ったのだそうです。こちらは同年9月に公開されて大当たり。翌年、リメイクされます。

ルノワール監督は『たそがれの維納』をみていたとは思うのですが、これを参照・引用して『ゲームの規則』を撮ったとは思いません。取り違えのファースはもともとフィガロにもあるし、非常に頻繁に用いられてきたモチーフです。リゼットのフード付きコートもまるで「フィガロ」ですしね。

でも『ゲームの規則』を見ていると、マルセル・ダリオ/Marcel Dalioはヴィリ・フォルストに似ている(歩き方も似ている!)、カレット/Julien Caretteはハンス・モーゼ/Hans Moserみたい、ガストン・モド/Gaston Modotはルイス・トレンカー/Luis Trenkerみたい、ローラン・トゥータン/Roland Toutainはヴィリー・フリッチェ/Willy Fritschかグスタフ・フレーリッヒ/Gustav Fröhlichか、ルノワール監督自身はパウル・ヘルビガー/Paul Hörbigerのような『たそがれの維納』で指揮者をやったヴァルター・ヤンセン/Walter Janssenのような。ノラ・グレゴールは・・・成熟した(老けたとも言う)リリアン・ハーヴェイ/Lilian Harveyでしょうか(笑)。

なんとも言えない気分になったのは『たそがれの維納』の終幕あたりですね。文化が老いるということをまざまざと感じたんですね。どこにと言われると難しいのですが。・・・終幕、医師のハーラント教授が、人助けに駆けつけるのですが、それも劇場の通路で女性ともめているところを見られたくないからしぶしぶ同行するのだし、騒動の裏事情が全て明らかになったところで、この教授は全てを自分の胸一つに納めて、体面・体制を維持するのです。体面のため、体制のため、属している過去の社会秩序や価値観のためであって、ヒューマニティではないのです。でもヒトデナシに描かれているわけではありません。貴婦人の有能なコンパニオンを勤めているパウラ・ヴェッセリー/Paula Wesselyを賞賛し、画家のアントン・ウォルブルック/Anton Walbrookとの恋に暖かいまなざしを注ぐ温情にあふれた「権威」として描かれています。
そこには愛や情熱やらの「人間性の発現」ではなく、幸福は「恩寵」で与えられるものであり、決して動こうとしない「封建制に根付いた価値観・思考」を感じました。過去に生きていて、頑固にそこから動こうとしないのです。預金残高を減らしたくないんですね。
でも、だからこそ?にもかかわらず?なのか・・・『たそがれの維納』はひどく魅力的な映画ですね。とても魅力的なので困ってしまうほどです(笑)。『ゲームの規則』でラ・シュネイ侯爵が余興のクライマックスに、からくりオルゴールを披露しますが、なんだかヴィリ・フォルスト(とヴィーン出身の映画人達)が魅力的だけど思想の無い映画を撮っていることの風刺のように感じました。

思想がないのはオーストリア映画だけの傾向ではありません。ハリウッド映画については、ちょっと先回りしてのぞいてみた『シンス・イエスタディ』(第十章 ペンとカメラに映ったアメリカの暗黒部 8 ハリウッド天国)で、著者はこう述べています。
【引用】
(前略)しかしハリウッドでは、ずっと社会意識を信奉してきたので−とりわけ一九三七、三八年には−大勢の脚本家、俳優、技術者が彼らの組合のため、トム・ムーニーのため、スペイン共和派のため、あるいは人民戦線の共産主義者の言い分のためにさえ、何かをしたいという気構えを持っていた。だが、彼らが製作にたずさわった映画の中にはほんとうのアメリカの姿はあらわれてこなかった。映画は人びとを、思想のからまない冒険とロマンの架空の世界へ誘っていた。
 映画に投資した資本家は、国の内外を問わず、映画好きの人たちの気に障るような危険性のある厄介な問題は、避けたほうがいいと考えていた。だから、映画に対して、倫理をふりまわすモラリストを懐柔しなければならなかった。(後略)
・・・
(前略)外国市場を失うことを恐れたので、外国の意見に対する懐柔策もとらねばならなかった。舞台劇『痴者のよろこび』(略)が映画化されたときには、住民達がイタリア語ではなくエスペラントをしゃべる架空の国を設定しなければならなくなった。また一九三九年の『ボージェスト』再映画化に際しては、旧作の無声映画に登場する悪玉は、イタリアやベルギー風の名前よりもロシア名前にしたほうがよかろうということになった。というのもソ連との映画取引がまだ比較的に少なかったからだ。資本家も労働者も、また政府もその敵対者も批判されてはならないというわけだ。だからもし改革者というものを作品を通して見せようとするなら、それは現代のアメリカ人であるよりは、エミール・ゾラのように過去の、しかもフランス人であるほうが望ましい。何故かといえば、アメリカの何かがまちがっているということをほのめかさなければ、アメリカ人が改革を行う必要はないからである。
 三○年代の映画の世界で、比類なき芸術家といわれたウォルト・ディズニーが、“ファンタジイ”の創造者であったということは、意味深長なことだ。そして映画界における一九三八年一月の注目すべき出来事が、スクリーンのお伽ばなし『白雪姫』の製作だったことにも意味がある。(後略)
・・・
(前略)映画は、アメリカの現状について思索しようとするのを避けたばかりではなかった。実際に、プロデューサーたちは、半ば無意識に、現状について考えようとする人たちや社会救済家や、とりわけアメリカの大衆に意識をもたせたがっている人たちを物笑いの種にした。というのも、映画に映し取られたアメリカには−大衆紙の小説や広告にあらわれたアメリカと同じように−ほんとうの貧困も不満もなく、労使間の利益をめぐるいかなる紛争もなく、さまざまな考え方の真のぶつかり合いもなかったからである。それどころか、映画に見るアメリカは、誰もが金持か、もう一歩で金持になるところで、大邸宅や英国訛りの召使、自家用プールなどを所有していても、富の分配について何ら厄介な問題が起きないばかりでなく、それが人間の普通の分け前として受け入れられている国であった。映画に病みつきになった観客は−少なくとも映画館にいる二時間は−こうしたアメリカをまったく当然のことと考えるようになっていた。(後略)
・・・
(前略)同胞たちに向かって、自分たちの運命の不平等と悲惨さを知らせようという激しい願望に燃えた作家や芸術家が、決然として何千人かの人びとに語りかけている一方で、毎週八千五百万人といわれる人びとは映画館で、ゲーリー・クーパー、クラーク・ゲイブル、マーナ・ロイ、キャサリン・ヘプバーン、ロナルド・コールマン、キャロル・ロンバートなどのハリウッドの神々が、ゆるやかなカーヴを描く広い階段や大理石の床や豪華な応接間といったすばらしい眺めの夢の国で遊びたわむれているのを、じっとみつめていた。しかもこの八千五百万人は、それを好んでいたのである。
 アメリカが−それを望む人間がいたとしても、いぜんとして−プロレタリア的な心情にはなっていなかったということが、これまで述べてきたことの教訓ではあるまいか。実際に、悪いところは矯正し、利益を守る準備をする能力をもっていた市民は、他の機関がそれをやらないのならば、政府によって誤りを正し、利益を守ってもらおうと考えていた。アメリカ人のなかには、必要とあれば、自分たちに必要なものを得るために、戦うことさえ辞さないという人たちがいた。しかし彼らの心の奥底には、まだホレイショ・アルジャー(略)が描く天国のように勇気ある青年が出世し、魅力ある若い娘が百万長者と結婚して、永久に幸福に暮らすという夢を見る余裕があったのだ。
【引用終わり】

1939年に書かれているので、階級概念の問題に帰着していますが、当時の時代認識でハリウッド映画とはこのようなものでした。
文化が老いた・・・って、単に自分が歳取っただけなんだろうなとも思うんですけどね(笑)。『ゲームの規則』公開時に怒って劇場に火をつけようとした1939年当時の観客の方が、よっぽど「若い」し、生き生きしているように感じます、21世紀の“Idiots”よりも。
いずれにしても次に「火山の噴火」があったら、我々はいよいよ終わりですなぁ。淀長さんに解説されると、ついなかったことと信じたくなりますね(笑)。既に“終わって”ますね・・・。
http://youtu.be/TOVE6VhaCd4

註:『痴者のよろこび』とはロバート・E・シャーウッドの1936年のピューリッツア賞を受賞した戯曲の映画化『愚者の喜び』(Idiot's Delight 1939 クラレンス・ブラウン)のことです。
No.400 - 2015/03/11(Wed) 08:05:15
Re: 読みもしないで失礼ですが / Ismael
B&Wさま

『ゲームの規則』

この作品の評で印象的だったのは、ゴダールのジャン・ルノワール論(ゴダール全集)とかトリュフォーのルノワール論(こちらの掲載本は失念)でしょうか。
ルノワールの自伝では何か言ってますか?

『シンス・イエスタディー』
この人のハリウッド映画評はやや一方的な気がします。
左翼分子が最も多かったワーナーのギャング映画をどう思っていたのでしょう?
あるいは、スタンウィックの『ステラ・ダラス』とか。

また、何故ヘイズ・コードが成立したのかについて何か述べていますか?
No.401 - 2015/03/14(Sat) 08:10:38
『フィルムノワール/黒色影片』2014 / Ismael
久しぶりに矢作俊彦作品を読みました。

1980年代には結構集中して読んだのですが、最後に読んだのは『スズキさんの休息と遍歴―またはかくも誇らかなるドーシーボーの騎行 』。

晦渋な文章は健在で、全部読み終わるまでに何回休憩したかよく憶えていません。
まさに読者を選ぶ作品でしょうか。

80年代に読んだ作品でストーリーを憶えているのは司城志朗と組んだ作品(特におもしろかったのは『暗闇にノーサイド』)とか『ハード・オン』などの劇画で、『リンゴ・キッドの休日』や『マイク・ハマーへの伝言』は、おもしろかったという記憶は残っているのですがストーリーはさっぱり憶えていません。

さて本作ですが、フィルムノワールといっても「日活アクション」が中心で、特に鈴木清順の『野獣の青春』と『殺しの烙印』の記憶が濃密に絡みついているとの印象。

映画への言及はもちろんフィルムノワールにとどまらず、あれやこれや思わずニヤリとしたくなるセリフがたくさん出てきます。

そして、酒、車、銃器へのこだわりは、ハードボイルドミステリーの必需品?
No.396 - 2015/03/07(Sat) 20:42:31
読みもしないで失礼ですが / 椿五十郎
Ismaelさん、失礼します

矢作俊彦作品は恥ずかしながら一冊も読んでませんが、『AGAIN/アゲイン』(1983)だけは、見てます
あと原作を書いた大友克洋の「気分はもう戦争」では、主人公に「やーくざのむーねはなーぜに寂しいー」と歌わせていますね

「アゲイン」の冒頭でロマンポルノ時代の日活マークを裕次郎のマシンガンで穴だらけにした矢作監督ですが、
小生なら
『八月の濡れた砂』(1971)のサッカーボールで割れるガラス窓に「日活アクションの華麗な世界」と書いて割って
ラストシーンの『狂った果実』(1956)のヘリコプター・ショットに石川セリの「八月の濡れた砂」をかぶせたいです
いつか、YouTubeにアップしたいと思ってます

ちなみに娘が小生の還暦のお祝いに何がいいかと言うので『無頼』シリーズのDVDセットをリクエストしました
ちっともハードボイルドじゃないハートウォーミングな今日このごろです

ほんじゃ、また
No.398 - 2015/03/08(Sun) 21:49:48
Re: 『フィルムノワール/黒色影片』2014 / Ismael
椿さん

いつも「熱い」けれど、どこか「とぼけた」レスに感謝。

>
> 矢作俊彦作品は恥ずかしながら一冊も読んでませんが、『AGAIN/アゲイン』(1983)だけは、見てます
> あと原作を書いた大友克洋の「気分はもう戦争」では、主人公に「やーくざのむーねはなーぜに寂しいー」と歌わせていますね

私は逆に、彼が関係した映画は一本も見ていません。
この人は、もともとは映画監督志望だったんですね。
シナリオのつもりで書いたものが周りから「シナリオではなくて小説だろう」言われたことがきっかけで「ミステリ・マガジン」に載せられたというのがきっかけで小説家の方に進むことになったそうです。
勝プロのサードの経験も有るようです。
一番衝撃を受けた映画は、ゴダールの『気狂いピエロ』とのこと。


>
> ちなみに娘が小生の還暦のお祝いに何がいいかと言うので『無頼』シリーズのDVDセットをリクエストしました


うーん、うらやましい。
私は、中古屋で巡りあうことを願っています。
『拳銃は俺のパスポート』は、持っていますが、長谷部安春の『縄張りはもらった』と『広域暴力 流血の縄張り』もDVD化されれますように!
No.399 - 2015/03/09(Mon) 09:36:56
スタートレックのスポック役 レナード・ニモイさん死去 / マグカップ
AP通信などによるとSFシリーズ「スター・トレック」のミスター・スポック役で知られた俳優・映画監督のレナード・ニモイさんが27日、米ロサンゼルスの自宅で死去した。83歳だった。慢性閉塞(へいそく)性肺疾患で闘病が続いていたという。<朝日新聞デジタル>

私はTVシリーズの「スター・トレック」は殆ど観ていませんが、劇場版のウイリアム・シャトナー版は大体観ました。中でもニモイが監督した「ミスター・スポックを探せ」と「故郷への長い道」は大好きでした。
「スター・トレック」シリーズは、この2人と他のレギュラー陣が魅力的だったと思います。
No.394 - 2015/03/04(Wed) 22:51:15
「紅の翼」(1954) / マグカップ
「紅の翼」(1954)が「ザ・シネマ」でTV放送されました。私の調べた限りでは、日本でDVDは発売されていません。
昔事故を起こしたパイロットのジョン・ウェインが、飛行中にエンジントラブルに襲われるというストーリーです。
私は観るのが2度目ですが、元気なウェインとティオムキンの美しい主題歌は良かったです。でも「大空港」の方が面白いと思いました。
私が興味を持ったのはallcinemaのコメントです。ウェインとハンフリー・ボガートとの間の確執について書かれてます。

<古井武士氏のコメント>
本作は、デューク(ウェイン)の製作だが、デューク自身は出演する予定ではなかった。
まずスペンサー・トレイシー(フォード一家の大先輩であり、デュークは心から尊敬していた)にオファーしたが、スケジュールの都合がつかずに断念、そこでボギー(ハンフリー・ボガート)のところへ持っていった。
「出演料は50万ドル、それ以下ならノーだ」
ボギーの返答にデュークは絶句し(当時50万ドルのギャラは法外な金額で、つまり断る、という意味だった)、首をひねった。
「断るにしても断り方ってものがあるだろう。 オレはボギーと喧嘩をやらかした覚えはないぞ」
しかしこれはデュークに原因があった。
本作の前年、アラン・ラッド主演の『シェーン』が大ヒットしていたとき、デュークは公の場でジョークを飛ばした。
「あんなチビの西部男じゃサマにならんよ。 ラッドとヘフリンの喧嘩を見ろ、チビはああやって勝つしかないのさ(『シェーン』にはラッドが卑怯に見える手を使ってヴァン・ヘフリンを殴り倒すシーンがある)」
背が低いことにコンプレックスを持っていたラッドはショックを受けたが、それ以上に怒ったのは、そのラッドよりも背が低かったボギーだった。
大柄な西部男たちに囲まれてはチビであることが目立つため、スターになってからは一本も西部劇に出演しなかった、と云うより出来なかったボギーは、本作のオファーを断ることで間接的に恨みを晴らしたのだった。
さらに、『赤狩りの先頭に立った男』と親密な関係だと思われてはまずい、との計算もはたらいていた。
ところが、仕方なくデュークが出演した本作は、デュークの生涯出演作の中でベストテンに入る特大ヒット作となってしまった。
記者たちに「ボギーに会ったら、断ってくれてありがとう、と伝えてくれ」とご満悦で話したデュークも、それから僅か三年後にボギーが亡くなると、名優の早すぎた死に涙を流した。
No.385 - 2015/02/24(Tue) 12:42:19
Re: 「紅の翼」(1954) / Ismael
マグカップさん
> ボギーの返答にデュークは絶句し(当時50万ドルのギャラは法外な金額で、つまり断る、という意味だった)、首をひねった。
> 「断るにしても断り方ってものがあるだろう。 オレはボギーと喧嘩をやらかした覚えはないぞ」


古井武士氏は、勘違いしていると思います。
ウェインがボカートに出演を依頼したものの出演料が高すぎてまとまらなかったのは、同じウェルマン監督でBATJAC PRODUCTION製作の『中京脱出』です。
No.386 - 2015/02/26(Thu) 11:04:51
Re: frameup / B&W
マグカップ様 Ismael様 こんばんは

興味深い話ですが結論から言うと眉唾のような・・・。ちょっと検索してみても、裏が取れないですね。

以下、Ismael様のご指摘どおりなのですが

『紅の翼/The High and the Mighty (1954)』のトリビアでは
>ttp://www.imdb.com/title/tt0047086/trivia?ref_=tt_trv_trv
“Spencer Tracy was originally cast as Dan Roman. He backed out of the film, however, after hearing several negative comments about how strict a disciplinarian director William A. Wellman was.”
スペンサー・トレイシーが最初主役に考えられていたことは事実のようですが。

翌年の『中共脱出/Blood Alley (1955)』の配役でも悩まされたようですね。Wikiによると
>ttp://en.wikipedia.org/wiki/Blood_Alley
“Wayne plays a Merchant Marine captain in a role originally intended for Robert Mitchum prior to an altercation with the producers. Mitchum was fired from the production by Wellman. Wayne took over the lead after Gregory Peck turned the film down and Humphrey Bogart requested a large amount of money to assume the role.”

IMDbのトリビアにはもう少し詳しく載っています。
>ttp://www.imdb.com/title/tt0047889/trivia?ref_=tt_trv_trv
“Robert Mitchum was originally cast as Capt. Wilder. He was fired from the film after an altercation ・・・(略)・・・ Gregory Peck subsequently turned down the role of Capt. Wilder, and Humphrey Bogart wanted a $500,000 salary, which would have put the film over budget. Without a major male star involved, Warner Bros. contacted producer John Wayne, threatening to pull out of their distribution deal for the film unless he took the role himself. ・・・(略)”
50万ドルと言うのはここから出てきたのでしょうか?何でよりにもよってボガートに主演を依頼したのか全く意味不明ですね。

いずれにしてもアラン・ラッドもシェーンもこの話には絡まないですね。ご紹介のコメンテーターの言う所のエピソードはチビとか何とか、「卑しい心」が透けて見えるように感じます(書いている人が下劣と言う意味ではないですよ。この人が“発明”したエピソードであるのならば話は別ですが)。

むしろこの時期にローレン・バコールがウェイン製作のプロパガンダ映画に出たことの方が興味深いですね。ボガートが食道がんに倒れたときにはジョン・ウェインは花を贈ったということですが。
>ttp://www.imdb.com/name/nm0000078/bio?ref_=nm_ov_bio_sm
“Lauren Bacall once recalled that while Wayne hardly knew her husband Humphrey Bogartat all, he was the first to send flowers and good wishes after Bogart was diagnosed with esophageal cancer in January 1956.”

これもボガートが亡くなった時と言う話も有ります。
>ttp://www.hollywoodstories.com/pages/hollywood/h7.html
花を贈るのは常識的だと思うのですけれどね・・・後世になって「赤狩り」のイメージ挽回を図るべくこういうエピソードが喧伝されている印象を、私個人は持ちます。

いずれにしてもご紹介のallcinemaコメントは表現一つ取ってもいやらしいですね。むしろこのコメントの方にプロパガンダ臭を感じます。
No.387 - 2015/02/26(Thu) 18:49:11
Re: 「紅の翼」(1954) / マグカップ
Ismaelさん、B&Wさん、こんにちは。

>興味深い話ですが結論から言うと眉唾のような・・・。
そのようですね。実は私も英語で調べたのですが、見つかりませんでした。お騒がせしました。
No.388 - 2015/02/26(Thu) 21:13:43
Re: 「紅の翼」(1954) / Ismael
ウェインが『シェーン』のラッドを揶揄したような発言をしたという話は、私もどこかで目にした記憶があります。

それが本人談だったのか伝聞だったのかの記憶は有りません。

ウエィン、トレイシー、ボカートの共通項はジョン・フォードですね。

確かウェインとトレイシーの共演も、ウェインとボカートの共演もないと思いますがトレイシーとボカートはフォード作品『河上の別荘』で共演していますね。

ウェインとしてはそれが羨ましくてしょうがなかったのではないでしょうか。

バコールが『中京脱出』に出演した経緯はよくわかりませんが、作品自体は、それほどプロパガンダ臭かったという記憶はありません。
その政治的信条はともかくウェインは、やっぱりナイスガイだったようです。

『中京脱出』の私の最初の印象は、『脱出』のリメイクです。


それはともかく『ホンドー』の件とかも考えると、プロデューサー・ジョン・ウェインというのを考えてみるべきかもしれませんね。
英語はわかりませんが日本語の「プロデューサーとしてのジョン・ウェイン論」というのを見た記憶が有りません。
No.389 - 2015/02/26(Thu) 23:09:50
Re: 「紅の翼」(1954) / ママデューク
Ismaelさま、皆さま。

トレーシーはいざ知らず、ウェインとボガートの共通項としては”ワーナー”というのがあると思います。リパブリックを飛び出したウェインを、ジャック・ワーナーは何と出演料1本15万ドルプラス、その収益の10パーセントという破格の契約を結びます。そして事実、ウェインのウェイン・フェローズ・プロダクションの作品群はワーナーに多大の利益をもたらした様ですね。

かたや、ボガート。こちらは1930年代からのワーナーの古参、この頃サンタナ・ピクチャーズを主催していたが、1953年の「悪魔をやっつけろ」で製作をやめております。古くからワーナーに尽くして来たボガートとしては、新参のウェインの活躍は、余り面白いことでは無かったかも知れないと推察出来ます。そして、それがボガートの大スターとしての意地”50万ドル”のギャラ提示だったのかも知れませんね。
No.390 - 2015/02/27(Fri) 11:16:35
身長論 / ポルカドット
皆様、今日は。

> 怒ったのは、そのラッドよりも背が低かったボギー

 この記述は正しくないようですね。ボギーはオードリー・ヘプバーンより少し背が高く、ラッドはオードリーより少し低かったらしいから、ボギーがラッドより背が低いということはないはずです。

 ラッドより背が低かった俳優というと、エドワード・G・ロビンソン、ミッキー・ルーニー、ジェイムズ・キャグニーといった人たちでしょうね。

 IMDbによれば、オーディー・マーフィは身長173cmとあって、ボギーと同程度ですが、オーディの方がボギーより小柄な印象ですね。IMDbも、以前はオーディの身長をもっと低く書いていたように思うし、現にオーディを165cmとしているデータベースもあります。オーディの背丈はミステリーですね。
No.391 - 2015/02/28(Sat) 11:13:41
恐怖の土曜日(1955) / Ismael
皆様

以前日本語字幕無しで一度見ていますがDVDにてじっくり鑑賞。

先ずこの作品は全くフィルム・ノワールではありません。
むしろダグラス・サークの「スモールタウン」連作に近いものだとおもいます。

『アスファルト・ジャングル』のようにギャング一味の行動とその末路を描くわけではないし、強盗一味が銀行に立てこもるはなしでもありません。
ビクター・マチュア一家、リチャード・イーガン夫婦などそれぞれ問題を抱えている人物が登場し・・・・・というストーリー。
ともかく空間処理というか人の出入りの演出が上手いですね。

特に銀行強盗当日のドラッグストアの場面が秀逸。
銀行支配人のトミー・ヌーナンが入ってくるのを看護婦のリンダが座っているカウンターの奥のカメラが捉え、その後リチャード・イーガンがタバコを買いに入ってきてリンダと会話を始める。
警察に嘘の事故を通告するために強盗一味のJ・キャロル・ネイシュが入ってくるとそれまでフィックスだったカメラがネイシュの動きを追い始め、電話ボックスに入ったところでカメラは動きを止め、電話口で話すネイシュをズームアップ。
ここまでワンカットです。

それまで無抵抗といっていたアーミッシュの農夫が最後にマチュアのピンチをかなり残酷は手段で救いますが、この農夫を演じているのがアーネスト・ボーグナインですから、私はあまりビックリしませんでした。

犯罪は引き合わないとか、不貞な妻は罰を受けるなどハリウッド的なモラルは健在ですが、フライシャーの演出はそういう陳腐さを補って余りあります。
No.384 - 2015/02/19(Thu) 12:12:08
追悼、リザベス・スコット / ポルカドット
 リザベス・スコット嬢が1月31日に亡くなったそうですね(享年92才)。

 小生が見た彼女の作品は西部劇の「赤い山」と「逮捕命令」、他に「さまよう青春」、YouTubeで見せて貰った「Too Late for Tears」などで、こういう硬質の女優さんはあまり小生の好みでありませんが、印象に残っています。

 ジェーン・グリア嬢は、「過去を逃れて」で、確かカーク・ダグラスとロバート・ミッチャムを殺したから、大したものだと思いますが、リザベス・スコットも、「Too Late for Tears」で、アーサー・ケネディとダン・デュリエを殺したから相当のものです。(大勢殺せば偉い、というわけではないけれど。) このファム・ファタール二人の共演作があるそうで、定めし犠牲者が増えるのだろうと思ったら、幸いこちらは人死にが出なかったようです。

 ご冥福をお祈り致します。
No.379 - 2015/02/08(Sun) 14:05:55
Re: 追悼、リザベス・スコット / ママデューク
ポルカドットさん、今晩は。

リザベス・スコット、亡くなりましたか・・。私も「逮捕命令」は好きな西部劇です。この映画は「真昼の決闘」の剽窃でありましたね。しかし、本作での花嫁スコット嬢、グレースなんかと比べると非常にアクティブでありましたね。仰るとおり”硬質”の女優だったのでしょう。

話は代わりますが、この「逮捕命令」も1950年代の3D映画らしい。あまり3Dらしさは無いんだけど、最後の「鐘」のトリックは面白かった。それにダン・デュリエの役名”マッカーティ”なんてのはホント、笑ってしまう程に傑作でしたョ。 合嘗。
No.380 - 2015/02/08(Sun) 18:19:38
Re: 追悼、リザベス・スコット / マグカップ
ポルカドットさん、ママデュークさん、こんにちは。
私はリザベス・スコットの作品は「逮捕命令」と「涙は手遅れ Too Late for Tears」しか知りません。
そこで「大いなる別れ」(1947)を観てみました。主演2人は熱演したのですが、パッとしないストーリーでした。
しかし、当時トップスターだったボガートの相手役に選ばれるのは、よほど人気があったのだと思います。少しローレン・バコールに似ているなと思いました。
No.381 - 2015/02/13(Fri) 21:05:09
Re: 追悼、リザベス・スコット / Ismael
みなさま、

リザベス・スコットは、ここ数年私が興味を持っているハリウッド40年代の代表的女優の一人ですね。
好きか嫌いかと言われると特に好きではありませんが興味はあります。

ワーナーにいた頃のハル・ウォリスに誘われたのがきっかけで映画界入りするわけですが彼女は、ウォリスの実力を過大評価していたとの見方もあるようです。

デビュー2作目の『呪いの血』は、そのウォリスのプロダクション製作で配給がパラマウントです。
この作品のクレジットで彼女の名前は、スタンウィック、へフリンと一緒に出てきます。
これが映画デビューのカーク・ダグラスよりは格上の扱いです。

本人の人柄なのか、ファム・ファタルにはなりきれないところが彼女の良さでもあり弱点でもあった、ということなのでしょうか?

それにしてもこの作品を含めて日本未公開作品が多いですね。

アメリカ本国での人気の程はよくわかりませんがIMDbには、以下の記載があります。
Early in her career she was often thought of as a generic version of Lauren Bacall.
No.382 - 2015/02/14(Sat) 09:13:35
あきれた解説文 / Ismael
皆様、

実に久しぶりに『大いなる別れ』を見直しました。
作品については特に何か言いたいことはないのですが、このCOLUMBIA TRISTAR FILM NOIR COLLECTION Vol. 1に封入されている小冊子を購入後はじめ読んだのですが、『大いなる別れ』の解説文に、フィルム・ノワールとは「トリュフォーがパリで映画評論家をしていた時代に、40年代以降のハリウッドの犯罪映画を中心に賞賛した言い回し」とあってビックリしました。

この小冊子全部が細越麟太郎とかいうエッセイスト/映画評論家の手になるもののようです。

他の作品の解説も思い込みや間違いが多く困ったものです。
念のためVol. 2の冊子を確認したらやはりこの人。
No.383 - 2015/02/14(Sat) 19:08:04
クラシック映画の名作って本当に面白いんだろうか? / B&W
皆様

「クラシック映画」で検索したらこの掲示板は出てくるかな?と思ってやってみたら・・・

こういう記事に行き当たりました。

>「クラシック映画の名作って本当に面白いんだろうか?」
http://getnews.jp/archives/503622


これには(2)もあります。

ttp://getnews.jp/archives/513367


約1年前に近い記事で、旧聞に属するので恐縮ですが、読んでいてヘェーっと思ったので、皆様の意見をお伺いしたいと思いました。

記事を書いたご本人は生業ではないものの、ご自身でも映画を共同制作しておられる方だそうです。
1000本ぐらい映画を見ておられるとか。
「七人の侍(1954)」、「アラビアのロレンス Lawrence of Arabia (1962)」、「東京物語(1953)」、「或る夜の出来事 It Happened One Night(1934)」、「雨に唄えば Singin' in the Rain (1952)」、「アラバマ物語 To Kill a Mockingbird (1962)」
などがお好きなようですね。

「駅馬車 Stagecoach (1939)」よりは「スピード Speed (1994)」の方がいいとのこと。
ご本人の弁によると「若輩者の繰言と思ってご容赦」とのことなんですが。

カット割りのことやカメラムーブメント、パンフォーカスなど、素人である私には良くわからなくて・・・そういうものなのかなぁ?と、釈然としない気持ち。

最近私は1930年代前半の映画をウロウロ見ていて、ちょうどトーキーへの移行時期なんですよね。

プロ(もしくは半プロ)の方の、クラシック映画についての本音の評価なのかなと思いました。

皆さんがどうお感じになったか教えていただければ幸いです。
No.366 - 2015/01/27(Tue) 00:16:52
Re: クラシック映画の名作って本当に面白いんだろうか? / Ismael
B&Wさん

両方をざっと読みました。
言いたいことはわかりますが、どの時代にも面白くない映画と面白い映画があるということでは?

この手の記事にはよく有りますが、設問が間違っています。
「本当に面白いクラシック映画は?」とすべきでしょう。
「本当に」という表現もあまり好きではないですが・・・・・。


> 1000本ぐらい映画を見ておられるとか。
1000本でこれだけ大口を叩くのははしたないですね。
「洗練」と言うのもどういうことか今ひとつわかりにくいですね。
あと、商業映画という制度に対する関心というか目配せが足りない気がします(あえてその辺りには触れないようにしているのかもしれませんが)。

私が以前から感じているのは、トーキー初期〜50年代前半の多くの映画の音楽がうるさいということです。
これでもか、という感じで音楽が入りますね。

私が何故クラシック映画を見続けているかといえば、いくつか理由がありますが、その一つは、自分なりの映画史を作りたいということです。私が積極的に映画を見始めた1970年代に一般的に流通していた映画史は、非常に偏ったものであったとおもいます。

また、国家というものがどのように作られ、維持されているのかという疑問に答えてくれる項目の一つが映画という媒体・制度であるからです。
No.367 - 2015/01/27(Tue) 10:02:50
Re: クラシック映画の名作って本当に面白いんだろうか? / B&W
Ismael様

お返事ありがとうございます。
>この手の記事にはよく有りますが、設問が間違っています。
>「本当に面白いクラシック映画は?」とすべきでしょう。
>「本当に」という表現もあまり好きではないですが・・・・・。


具体的には、筆者はAFIの“100 GREATEST AMERICAN MOVIES OF ALL TIME”(最も偉大なアメリカ映画100本)において、TOP10中に1960年までの作品が半分を占めている状況をさして言っているのだと思います。つまり「名作(≒面白い)」と一定の評価を受けているクラシック映画に焦点を当て、その上でそれは本当に面白いのか≒名作なのか、について疑問を呈しているのだと思います。

ちなみに記事中のURLはAFIが1998年に発表した100本で、より直近の2007年の100本はこちらです。
ttp://www.afi.com/100years/movies10.aspx
調べてみると46%(46本)が1960年以前のクラシック映画でした。

>「洗練」と言うのもどういうことか今ひとつわかりにくいですね。
大体こういう議論は、「面白さ」や「名作と呼ぶ基準」が個人の主観に基づくので、話が散漫になるし通じ合いにくくなりがちですね、どうしても。
2013年が3Dの幕開け?の年であり、この方も3D技術に興味関心があるようですね。

>あと、商業映画という制度に対する関心というか目配せが足りない気がします(あえてその辺りには触れないようにしているのかもしれませんが)。
これは良く行われる、TOP10とか、TOP100とか、残したい名作TOP○○・・といったものが、過去の遺産についての、現在の潜在顧客に対する販売戦略でもあるのだ、という意味でしょうか?もっと別の事柄なのでしょうか?

「アート系」の映画について少し触れていますが、それに絡むのでしょうか?

>私が何故クラシック映画を見続けているかといえば、いくつか理由がありますが、その一つは、自分なりの映画史を作りたいということです。
>私が積極的に映画を見始めた1970年代に一般的に流通していた映画史は、非常に偏ったものであったとおもいます。


筆者は作品のカット割りをするに際して、参考にしたいと魅力を感じるクラシック映画がほとんどない、ということからこの文章を書いたようです。Ismael様は映画史という目的があるのですね。すると映画作品は資料であったり研究材料であったりするわけですね。そうなると、おのずから映画に対して求めるものが違ってくるのかなと思います。

私はクラシックにこだわっているわけでもないんですが、面白いと思って古い映画を見ているんです。なので「魅力を感じて」見ているのですね。逆に1970年代以降というか、最近の映画はどれもあまり変わらないというか、映画を見る醍醐味があまり感じられない様に思っています・・・ただ、いくらもみていないので、これはなんとも・・・恐らく偏見になると思います。ただ正直な所、最近の映画はどれも同じように感じますね。昔は製作国によって違って見えたのですが、それも最近は均質な印象を持ちます。機材が汎用されているからなのか?流通が発達したために、世界中で売れる様に作るためなのか?

映画のトレイラーって、どれも同じようでしょう?極端に言うと、その「同じように見える」印象がそのまま映画にも当てはまってしまうんです。これは私の感性ですけどね。で、同じような映画でも別にかまわないとも思います。面白く楽しむことが出来れば。私はクラシック映画で楽しいからそれを見ているだけですね。世界の映画について無知という面も有ると思います。

この記事に興味を引かれたのは、この方はクラシック映画に魅力を感じない理由として比較的はっきりと根拠を示しているからです。
1、映像のリズム・・・カット割、カメラムーブメント
2、視点誘導・・・シャロウフォーカス、バストアップ&クローズアップ
3、素材(物語のパターン)の組み合わせ方における洗練 と 脚本執筆時の綿密な取材
以上のものがクラシック映画に欠けていると言っておられて、私は特に撮影のこと(カメラのこと)は無知で解らないので、ヘェーっと思ったんですね。

古い映画には切り返しが少ないとか、そうだっけ?と思いながら読んでいました。これは撮影機材の進歩もあるので、しょうがない面もありますね。でも、私は古い映画が、そのためにつまらないとは思わないので、これはもう、その人それぞれの「リズム感」に合う合わないという話なのかもしれませんね。

脚本については筆者は「存在する物語の組みあわせ方」は「後の時代のほうがより洗練」されていて、「原典よりもフォロワーの方が優れていて、それは他のジャンルでも言える事」と言っておられます。これは全く意外で、私は「リメイクは原作(第一作)を超えられない」と、漠然と感じていましたし、そういう意見を他でもよく目にしていたので、驚きました。・・・そう言われれば、確かに『マルタの鷹』は3作目(1941)が一番面白いですね。私は個人的にはかなり2作目(Satan Met a Lady /1936/ ウィリアム・ディターレWilliam Dieterle)が好きなんですけどね。

ちょっと横道にそれますが、因みに文中に出てくるカット数が多いというポール・グリーングラス(Paul Greengrass 1957-)監督の、BFIの2012年TOP10(vote)を調べてみました。1960年以前の作品が5本入っています。
http://explore.bfi.org.uk/sightandsoundpolls/2012/voter/1110

アルジェの戦い Battle of Algiers ,The / 1966 / Gillo Pontecorvo
戦艦ポチョムキン Battleship Potemkin / 1925 / Sergei M Eisenstein
自転車泥棒 Bicycle Thieves ,The / 1948 / Vittorio de Sica
勝手にしやがれ Breathless / 1960 /Jean-Luc Godard
市民ケーン Citizen Kane / 1941/ Orson Welles
奇跡の丘 Gospel According to St Matthew ,The / 1964 / Pier Paolo Pasolini
少年と鷹 Kes / 1969 / Ken Loach
七人の侍 Seven Samurai / 1954 / Akira Kurosawa
ウォー・ゲーム War Game ,The / 1965 / Peter Watkins
Z / 1968 / Costa-Gavras

>私が以前から感じているのは、トーキー初期〜50年代前半の多くの映画の音楽がうるさいということです。
>これでもか、という感じで音楽が入りますね。

『M』(1931)や『巴里の屋根の下』(Sous les toits de Paris /1930 /ルネ・クレール René Clair)の有音・無音の切り替えは(私には)印象的でした。『目撃者』(Winterset /1936/アルフレッド・サンテル Alfred Santell)のキャプション付き動画がありましたので見ましたが、ずっと音楽が流れて、登場人物の心理や場面の理解を助けているように感じました。また、昔「火サス」という呼び名もなかった頃、TVの2時間ものの犯罪ドラマを見ていて、ずっと音楽が付いていてうるさいなと思ったことを思い出しました。最近ですとたまたま見た韓流ドラマに、ずっと音が付いているなぁと思ったことがあります。

さて、私はたまたま『恋愛三昧』(Liebelei / 1933マックス・オフュルスMax Ophüls)を見ていたところだったのですが、これも音楽が流れているのですが、使い方が上手いですね。古い映画ですが、カメラワークもいいと思うんですけどね。筋はあまりにも使い古された物語ではあります・・・確かに今の観客には退屈で飽きてしまうかもしれません。私はこのラストのあっけなさが好きなんですけどね。他にない個性を感じます。
No.371 - 2015/01/27(Tue) 23:17:04
Re: クラシック映画の名作って本当に面白いんだろうか? / Ismael
B&Wさん

> 具体的には、筆者はAFIの“100 GREATEST AMERICAN MOVIES OF ALL TIME”(最も偉大なアメリカ映画100本)において、TOP10中に1960年までの作品が半分を占めている状況をさして言っているのだと思います。つまり「名作(≒面白い)」と一定の評価を受けているクラシック映画に焦点を当て、その上でそれは本当に面白いのか≒名作なのか、について疑問を呈しているのだと思います。
そうですね、そしてその答えは、名作と言われている作品にもつまらないものが有る、と決まっていませんか?
私もワイルダーの名作と言われている何本かは、面白いと思わないどころかある種の嫌悪感を持ちます。

だからこの筆者にとって面白い作品と、その理由を具体的に述べるべきだと私は思います。
つまらないと思うなら何故かをもっと具体的に述べるべきだと感じます。
まあ、本人が繰り言と言っていますが・・・・・。

> >「洗練」と言うのもどういうことか今ひとつわかりにくいですね。
> 大体こういう議論は、「面白さ」や「名作と呼ぶ基準」が個人の主観に基づくので、話が散漫になるし通じ合いにくくなりがちですね、どうしても。


> >あと、商業映画という制度に対する関心というか目配せが足りない気がします(あえてその辺りには触れないようにしているのかもしれませんが)。
> これは良く行われる、TOP10とか、TOP100とか、残したい名作TOP○○・・といったものが、過去の遺産についての、現在の潜在顧客に対する販売戦略でもあるのだ、という意味でしょうか?もっと別の事柄なのでしょうか?
>

例えば、この人は、クラシック映画はカメラが動かないと言っていますね。
カメラが動かない理由には少なくとも2つあります。
動かさないのか、動かせないのか。
それぞれの理由について、何故そうなのかを調べることのほうが、動かないからつまらないで終わらせるより有益ではないでしょうか?

> 私はクラシックにこだわっているわけでもないんですが、面白いと思って古い映画を見ているんです。なので「魅力を感じて」見ているのですね。逆に1970年代以降というか、最近の映画はどれもあまり変わらないというか、映画を見る醍醐味があまり感じられない様に思っています・・・ただ、いくらもみていないので、これはなんとも・・・恐らく偏見になると思います。ただ正直な所、最近の映画はどれも同じように感じますね。昔は製作国によって違って見えたのですが、それも最近は均質な印象を持ちます。機材が汎用されているからなのか?流通が発達したために、世界中で売れる様に作るためなのか?

欧米の映画は均質化しているかもしれませんね。対してアジア映画やアフリカ映画は、まだそれぞれの地域で特色があると思います(中国語圏はかなり均質化していますが)。
インド映画の唐突なダンス、タイ映画の幽霊やトカゲ女、インドネシアの悪霊退治映画などなど。
>
> 映画のトレイラーって、どれも同じようでしょう?極端に言うと、その「同じように見える」印象がそのまま映画にも当てはまってしまうんです。これは私の感性ですけどね。で、同じような映画でも別にかまわないとも思います。面白く楽しむことが出来れば。私はクラシック映画で楽しいからそれを見ているだけですね。世界の映画について無知という面も有ると思います。
>
> この記事に興味を引かれたのは、この方はクラシック映画に魅力を感じない理由として比較的はっきりと根拠を示しているからです。
> 1、映像のリズム・・・カット割、カメラムーブメント
> 2、視点誘導・・・シャロウフォーカス、バストアップ&クローズアップ
> 3、素材(物語のパターン)の組み合わせ方における洗練 と 脚本執筆時の綿密な取材
> 以上のものがクラシック映画に欠けていると言っておられて、私は特に撮影のこと(カメラのこと)は無知で解らないので、ヘェーっと思ったんですね。
>
> 古い映画には切り返しが少ないとか、そうだっけ?と思いながら読んでいました。これは撮影機材の進歩もあるので、しょうがない面もありますね。でも、私は古い映画が、そのためにつまらないとは思わないので、これはもう、その人それぞれの「リズム感」に合う合わないという話なのかもしれませんね。

上記3点とも間違っている、もしくは認識不足だと思います。
この人が映画を3000本程度見ても同じ考えだったら一考に値するかも。

この人は動体視力があまり良くないのでは?
「古い映画には切り返しが少ない」にはちょっと呆れますね。
古い映画の切り返しは、切り替え画面の構成が左右対称形で、登場人物の大きさもほぼ同じにして両方の画面間に違和感がないように綿密に注意深く設計されていますので自然で、なんとなく見ていると切り返しを殆ど意識出来ない場合もあります。
この左右対称形を壊したのが小津の切り返しですね。小津の場合、観客は向かい合っているはずの二人の登場人物が、並んで同じ方向を見ているように感じるわけで、これは古典ハリウッドではタブーですね。

> 脚本については筆者は「存在する物語の組みあわせ方」は「後の時代のほうがより洗練」されていて、「原典よりもフォロワーの方が優れていて、それは他のジャンルでも言える事」と言っておられます。これは全く意外で、私は「リメイクは原作(第一作)を超えられない」と、漠然と感じていましたし、そういう意見を他でもよく目にしていたので、驚きました。・・・そう言われれば、確かに『マルタの鷹』は3作目(1941)が一番面白いですね。私は個人的にはかなり2作目(Satan Met a Lady /1936/ ウィリアム・ディターレWilliam Dieterle)が好きなんですけどね。
これもどちらとは言えないでしょう。
リメイクと言ってもいろんなやり方がありますし。
例えば、ヴィクター・フレミングの『紅塵』(1932)とフォードの『モガンボ』(1953)を比べると私は、後者に軍配をあげますね。
マッケリーの『邂逅』と『めぐり逢い』は、甲乙つけがたい。
『模倣の人生』と『悲しみは空の彼方に』は、私はコルベールがあまり好きではないので、サークのほうが上です。


> >私が以前から感じているのは、トーキー初期〜50年代前半の多くの映画の音楽がうるさいということです。
> >これでもか、という感じで音楽が入りますね。
> 『M』(1931)や『巴里の屋根の下』(Sous les toits de Paris /1930 /ルネ・クレール René Clair)の有音・無音の切り替えは(私には)印象的でした。『目撃者』(Winterset /1936/アルフレッド・サンテル Alfred Santell)のキャプション付き動画がありましたので見ましたが、ずっと音楽が流れて、登場人物の心理や場面の理解を助けているように感じました。また、昔「火サス」という呼び名もなかった頃、TVの2時間ものの犯罪ドラマを見ていて、ずっと音楽が付いていてうるさいなと思ったことを思い出しました。最近ですとたまたま見た韓流ドラマに、ずっと音が付いているなぁと思ったことがあります。
>
> さて、私はたまたま『恋愛三昧』(Liebelei / 1933マックス・オフュルスMax Ophüls)を見ていたところだったのですが、これも音楽が流れているのですが、使い方が上手いですね。古い映画ですが、カメラワークもいいと思うんですけどね。筋はあまりにも使い古された物語ではあります・・・確かに今の観客には退屈で飽きてしまうかもしれません。私はこのラストのあっけなさが好きなんですけどね。他にない個性を感じます。

30-40年代のハリウッド映画の劇伴も一つのイデオロギーの現われだと思うのです。
まだ詳しく調べていませんが、劇伴の詳細も多分、プロデューサーに決定権があったのではないでしょうか。
ストーリーに付いては、かつてはヘイズ・コードという大きな足かせが有ったわけですし・・・・。
ただ、物語って無限にあるようで実際は、パターンが有るわけですよね。
この人の言う洗練することは、新たなパターンを生み出すことを意味しているのか、そうでないのか?
以下のサイトはロシアの昔話の構造分析に関するものです。
古典ハリウッド映画のストーリーの分析にも応用できるような気がします。
http://www.isc.senshu-u.ac.jp/~thb0309/minwa/Keitaigaku.pdf
ttp://mmorpg.g.hatena.ne.jp/tot-main/20050729/1122638769
ttp://www.amazon.co.jp/物語の法則-強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術-クリストファー・ボグラー/dp/4048913956
ttp://elokuvantaju.uiah.fi/nihon_go/kyoozai/kyakuhon/henka.jsp


用語の使い方もどうなんでしょうね。
シャローフォーカスの反対語はディープフォーカスでしょう。
被写界深度は浅い・深いと言いますから。

まあともかく、この筆者の勉強が足らないのは明らかですが、映画に対する愛情が足らないとしたらそちらのほうが問題ですね。
No.372 - 2015/01/28(Wed) 10:57:04
Re: クラシック映画の名作って本当に面白いんだろうか? / B&W
Ismael様
沢山ご教授いただきましてありがとうございます。大変勉強になります。

>そうですね、そしてその答えは、名作と言われている作品にもつまらないものが有る、と決まっていませんか?

>上記3点とも間違っている、もしくは認識不足だと思います。

結局筆者が言いたい事は文中にもありますが、「映画評論家の評価を丸呑みするな、自分の感性を大切にせよ」ということなのかなと思います。それはもっともなことで、特に映画に限らず、自分の価値観や美的倫理的感覚を大切にするのは当たり前だと思うのです。ただ、他者に見ないことを勧める行為は「出会う」機会を減じることになるので、してはいけないことではないかなと思いますね(『駅馬車』VS『スピード』)。文脈はどちらを選ぶか、という条件下での話になっていますが、そういう文脈に持っていかなくともよいのに、と思うわけです。披瀝している知識情報が間違っているのならば、なおさらで。

私は何となくもやもやして『市民ケーン』(1941)を見直しました。私はあまりこの作品が好きではないのです・・・。『日曜日の人々』(Menschen am Sonntag 1930 ウルマー&シオドマク&ジンネマン 7.6)の方がずっと好きですね。ともあれ、ドキュメンタリーも見たのですが、ウェルズも『駅馬車』を1ヶ月、45回見たといっているのだから、見るべき価値はあるのではないかと普通考えると思うのですけどね。

>シャローフォーカスの反対語はディープフォーカスでしょう。
「パンフォーカス」って和製英語なんですね・・・そんなことも知らない私なので、どうのこうの言う資格は全くないのです。
シャロウフォーカスで検索すると、あるブログに出会ったのですが、なんでも、シャロウフォーカスが流行っているそうですね。

撮影技術会社のブログ
http://blog.zaq.ne.jp/senri/article/1190/
《引用》その理由の一つに大口径の明るいレンズが比較的入手しやすくなったことと、動画撮影が出来るデジタル一眼カメラの撮像部の面積が映画用カメラと同等もしくはそれ以上になり被写界深度の浅い撮影が出来るようになったことだ《以下略》
→要するに、大きいレンズが手に入りやすくなったということでしょうか。
ピントが合った写真を「昔風」と言う人もいるそうです。

>まあともかく、この筆者の勉強が足らないのは明らかですが、映画に対する愛情が足らないとしたらそちらのほうが問題ですね。
「映画に対する愛情」がどうなのかはわかりませんが、何となく、部品を組み立てる様に映画を作っておられるのかなぁ?と感じます。文章全体からはRPゲームの開発のような印象を持ちます。金はないけどこの映画を撮りたいんだ!というよりは、既存のこの部品とこの部品を組み合わせて・・・という発想。カット割についても、それが映画の魂なんじゃないの?と(素人ながら)私は思うのですが、「飽きるから」「生理的なもの」「リズム感」でカット割を考えると言うのは、なんというか、作ろうとしているものは、もはや映画ではないのではないか?と(素人ながら)私なぞは思うわけです。MTV(古)みたいな・・・。

>古い映画の切り返しは、切り替え画面の構成が左右対称形で、登場人物の大きさもほぼ同じにして両方の画面間に違和感がないように綿密に注意深く設計されていますので自然で、なんとなく見ていると切り返しを殆ど意識出来ない場合もあります。

>この左右対称形を壊したのが小津の切り返しですね。小津の場合、観客は向かい合っているはずの二人の登場人物が、並んで同じ方向を見ているように感じるわけで、これは古典ハリウッドではタブーですね。

切り返し画面で人物をほぼ同じ大きさにするということは知りませんでした・・・でも、長らく表層意識にも上らないけれども、ずっと感じていたことを教えていただいたようで、目からウロコです。

「小津の切り返し」については、加藤幹郎氏の本で読んだと思います。
人様のブログの引用ばかりで恐縮ですが、とても興味深い記事に出会いました。G・W・パブスト/パプスト(George Willhelm Pabst)の『邪道』(Abwege 1928 7.2・・・撮影はテオドール・スパークル/Theodor Sparkuhlですね。)の切り返しについてです。既にご存知なら失礼。

G.W.パブストの“Abwege(1928)”:交わらない視線
ttp://kinomachina.blogspot.jp/search/label/G.W.PABST

>30-40年代のハリウッド映画の劇伴も一つのイデオロギーの現われだと思うのです。
>まだ詳しく調べていませんが、劇伴の詳細も多分、プロデューサーに決定権があったのではないでしょうか。


浅はかですが、音楽は言葉を用いないため、「思想」からは最も遠いように感じますけれども。どの民族(国)の音楽を用いるかと言うのは、思想背景を連想させる機能はあるかもしれません。・・・理解を助ける=誘導するために音楽が手段になるということですね。
視聴者の情動のコントロールにたいしては、劇伴は映画の諸要素の中でも最も強く働きかける要素でしょうね。
プロデューサーがもたらす影響といえば、人材の登用と、コスト面の決定権になるのでは?

>ストーリーに付いては、かつてはヘイズ・コードという大きな足かせが有ったわけですし・・・・。
>ただ、物語って無限にあるようで実際は、パターンが有るわけですよね。


>以下のサイトはロシアの昔話の構造分析に関するものです。
>古典ハリウッド映画のストーリーの分析にも応用できるような気がします。


ウラジーミル・プロップ(Vladimir IAkovlevich Propp, 1895-1970)や、ジョーゼフ・キャンベル(Joseph Campbell, 1904-1987)という学者のことは名前も知りませんでした。面白そうです。ご紹介の『物語の法則』という本も面白そうですね。昔、シナリオに詰まったら、ベン・ヘクトに頼ったと聞いたことがあります。たちどころに良案を出してくれて、筋をまとめてくれると。シナリオ・ドクターと呼ぶそうですね。著者はそういう人なんでしょうね。

>インド映画の唐突なダンス、タイ映画の幽霊やトカゲ女、インドネシアの悪霊退治映画などなど。
そんな映画があるんですか?日ごろ気をつけて機会があれば見るようにしてみますね。日本人が見ても幽霊とか悪霊とか通じるんだろうか。足がないとかウラメシヤとか記号がないとわからないような。トカゲ女ってイグアナみたいな感じなんでしょうか?だとしたら可愛いかも(笑)。
No.373 - 2015/01/30(Fri) 12:51:25
Re: クラシック映画の名作って本当に面白いんだろうか? / Ismael
B&Wさん

>
> 切り返し画面で人物をほぼ同じ大きさにするということは知りませんでした・・・でも、長らく表層意識にも上らないけれども、ずっと感じていたことを教えていただいたようで、目からウロコです。
>

もう少し言えば、画面における両方の人物の大きさが等しいなら、この二人の人物の間には、色んな意味で差がないわけですね。
もしこのバランスが崩れれば、作品における二人の重要度、あるいは二人の関係(支配・非支配、愛する・愛される)に変化や差がある、ということになります。


> プロデューサーがもたらす影響といえば、人材の登用と、コスト面の決定権になるのでは?
私の言うイデオロギーというのは、どちらかというと、劇伴でうめつくすのも観客へのサービスだ、とか作曲家に同じカネを払うなら、音楽をたくさん使ったほうが得だ、といった考えのことです。

切り返しに関してですが、ドライエルの遺作『ゲアトルーズ』は、ご覧になりました?
この映画は、二人の登場人物の心理の変化をどういう風に画面上に現すかという技法に関するとてつもない傑作です。
allcienemaのコメントには、まったく見当違いなコメントも見られますが、非常に映画的な映画です。

> >インド映画の唐突なダンス、タイ映画の幽霊やトカゲ女、インドネシアの悪霊退治映画などなど。
> そんな映画があるんですか?日ごろ気をつけて機会があれば見るようにしてみますね。日本人が見ても幽霊とか悪霊とか通じるんだろうか。足がないとかウラメシヤとか記号がないとわからないような。トカゲ女ってイグアナみたいな感じなんでしょうか?だとしたら可愛いかも(笑)。


私はある程度タイやインドネシアの映画を見ていますので下記著書の言いたいことはかなりよくわかります(もし読んでおられなければぜひ一読を)。
http://www.amazon.co.jp/怪奇映画天国アジア-四方田-犬彦/dp/4560094039
No.374 - 2015/01/30(Fri) 15:43:18
Re: クラシック映画の名作って本当に面白いんだろうか? / Ismael
B&Wさん

ご参考まで
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/jimu/kiyou/vol3/03.pdf
No.375 - 2015/01/31(Sat) 11:25:38
Re: クラシック映画の名作って本当に面白いんだろうか? / B&W
Isamel様
お返事遅くて済みません。
色々とお教えいただきましてありがとうございます。お奨めいただいたものは、読ませていただきますね。

>切り返しに関してですが、ドライエルの遺作『ゲアトルーズ』は、ご覧になりました?
>この映画は、二人の登場人物の心理の変化をどういう風に画面上に現すかという技法に関するとてつもない傑作です。
>allcienemaのコメントには、まったく見当違いなコメントも見られますが、非常に映画的な映画です。


さて、『ゲアトルーズ/ガートルード』(Gertrud 1964 カール・T・ドライヤー/ドライエルCarl Theodor Dreyer 7.6)、見ました!・・・どこまで本質が理解できているのかは怪しいですが。
Isamel様が“心理の変化を画面に表す技法”について指摘しておられますし、それまでのやり取りがクラシック映画の撮影技法に関るものでしたから、ミディアムショットやら、バストショットやら、切り返しやら、カメラの動きについて少し神経を払って見るようにしました。
冒頭、ずっと長廻しが続くので、『ロープ』(Rope 1948 ヒッチコック Alfred Hitchcock 8.1)みたいな映画なのかな?と思いつつ・・・。結局この映画はそうはならないのですが。
技術的な面に注目して見始めたものの、見終わったときには、一場の夢を見たような・・・夢の中で旅をしたような・・・疲労感がありました。

最初に受けた印象は、この作品においては「言葉」の比重が大きいなというものです。筋も心理も言葉によって表現され、契機となって進行するので、言葉の働きが大きいと思いました。書かれた言葉の働きも大きいですね(Gabrielのメモ、Axelの手紙)。

元々が舞台劇だということですが、ではこの作品の演出のまま、舞台に載せられるかといえばそれは無理・・・もたないと思います。なので、“stage like”だという批評もありますが、実は舞台風ではない。
映画としてはどうかと言うと、クローズアップはほとんどないし、ソファに腰掛けた二人をフィックスで延々と写す・・・抑揚のないセリフ、無表情、交差しない視線・・・これでも持ちきる事ができると言うのは確かに「映画的な映画」ですね。

映画に出来ること=対象物を切り取ってつないで見せたいものを見せたいように見せる、という映画の“踏み込んだ”(=強要的な)機能については、最小限にしか利用していないように感じます。音楽も劇中の唄以外は、非常に控えめに最小限にしか入れていませんね。

ユーモアも控えめですね。私が面白いと感じたのは、Gabrielが泣き出す所でしょうか。「そんなに深刻にならないで」って言うGertrudには笑ってしまいました。Gertrudの方こそ、よっぽど泣きたい所です(笑)。Gabrielはその前のスピーチで、「愛と思索が大切だ、妥協せずに正しく考え真実の頂に登れ」なんていっておきながら、Gertrudの情事については「知りたくなかった、行くんじゃなかった」と泣くんですからね(笑)。Gustavがスピーチで褒めたように率直な性格なんですね。これがAxelなら、黙っていたでしょうね。

Gertrudの回想シーンで、Gabrielのメモ――女の愛と男の仕事は初めから相反するものである――を見て、怒って写真を破り捨てる所がありますが、同じことを今度はGertrudの出奔に怒ったGustavがするんですね。ここも、愛し合っていなくとも「似たもの夫婦」なんだなあと、笑ってしまいました。

終盤のシーンで、Gertrudが訪問してきたAxelに、今は隠者の様に暮らしている、「私には孤独と自由が必要なの」とやや大仰に言うタイミングで下男が入ってきて新聞を渡すシーンも笑いました。で、霞を喰って生きてるわけじゃなし、自分で家事もしているし・・・と、Axelと話しているところはこの作品中ではかなり自由な風が吹いていて、ちょっとしたコミックリリーフになっているなと感じました。

・・・というわけで、カメラの動きに注意してみたものの、あんまりカメラは動かなくて、通常映画作品ではカメラが語ったりする部分が言葉で語られているなと思いました。逆に最小限の動きしかしないので、カメラの動きが持つ意味が純化されて観客に差し出されている様に思いました。「最小限の動き」は役者の演技にも感じました。

心理学のテストで投影法に属する「絵画統覚テスト(TAT)」と言うものが有りますね(泣いているんじゃないですよ! 笑)。どうとでも取れる絵を見せて、セリフを入れさせる心理試験です。役者の最小限の演技に、それを感じました。見る側が意味を了解できるギリギリの最小限で演出し、あとは自由連想してもらえば、と言う感じです。

見終わって私は、この作品の元の戯曲(ハルマー・ソーダバーグHjalmar Söderberg 1906年作)をどこかで読めないかと思って検索したのですが、見つけられませんでした。ただ、ジョナサン・ローゼンバウム(Jonathan Rosenbaum)氏の1986年執筆の作品レビューにたどり着きました。氏は原作戯曲を仏語訳で読んでいて、紹介しているのです。非常に興味深いです。Isamel様は既にご存知かもしれませんね。
>ttp://www.jonathanrosenbaum.net/1986/01/gertrud-as-nonnarrative-the-desire-for-the-image/

原戯曲では、Kanning夫妻にはなくした幼児がいて、Gabrielは詩人ではなく劇作家で、スペイン人の妻がいる。当時の政治状況への言及が多く、舞台はコペンハーゲンではなくストックホルム。Axelは原戯曲にはない人物。原戯曲には「白い影」が現れ、映画ではGertrudの16歳時の詩という設定になっている“gospel of love”を詠うのだそうです。映画ではGertrudが墓碑銘にする“Amor Omnia”は、原戯曲ではGabrielがGertrudとともに見た未知の人物の墓に書かれた文字にすぎないそうです。この辺りの情報はBLやDVDのパンフレットに載っているのかもしれませんが。

Axelがドライヤーによって付け加えられた人物であると言うのは興味深いですね。フロイトの「夢判断」が1900年に出版されていて、この作品の時代設定が1906年なので、まだまだ精神分析学への偏見や性の禁忌が強い時代ですね。Axelはこの時代としてはかなりの進歩知識人ということになると思います。
性の禁忌への若い反発がGabrielの受賞式典での若人のスピーチにありますね。Gabrielは進歩的詩人なんですね。その作品の率直なエロティシズムが若い世代から称揚されて、詩に表現されている「命を燃やす炎」が引用されます。

同時にドライヤーの皮肉な視点も感じられて、それは式典が若い女性を排除して行われていることに感じられます。愛も性も対象者がなければ成り立たないのに、女性は階段に排除されているのです。これには地域性も現れているのかもしれませんね。自国は性に保守的・因習的であると・・・Gabrielはイタリアに居住、Axelはパリですしね。

「炎」の扱いについて・・・映画の最終セリフは“炎をじっと見つめていると、まるでその中で燃え尽きてしまうように感じるの”というものですが、映画の中では方々に炎が出てきます。しかしどれも小さく、大人しく炉の中で燃えていますね。ロウソクも・・・Gertrudは消してしまいます。Gertrudは殉教者にはならずに生き延びるので、炎に焼かれたジャンヌ・ダルクとは違うのですが、私はGertrudは「ジャンヌ・ダルクの後裔」ではないのかと感じます。

この作品は、眼に見えているもの=映像が言葉を裏切る、言葉が映像を裏切る、そういう映画なんですね。言葉はどれも抑揚がなく、生気がなく、どこかしら夢のようで上の空に響くのですが、映画作品が観客に対して誠実でかつ自由な解釈を許すものであろうとすればそうなると思います。そういう主題――生の両義性・多義性――を扱った映画だからです。観客に判断の主導権を渡しているのですね。そしてこの作品を鑑賞するということはきわめて個人的な体験に属することになる様に思います。人が同じ感想を持っているか確認する必要があまり無い作品の様に思います。

視線の交錯も最小限に留められていますが、それは描かれている人間関係が、あるいは監督が描きたいと考える人間関係が、そういうものだからだろうと思います。交わらないこと・・・孤独ですね。

Gertrudの“gospel of love”は原戯曲では“白い影”がGertrudにもたらす「お告げ」なわけですが、映画では全く異なった文脈で用いられているとはいえ、ドライヤーの発明ではありません。“私は美しくも若くも、生きてさえもいなかったが愛した”というこの詩は、私は以下のように続けられるべきであったと考えます。「私はあなたに愛されなかった、けれども私はあなたを愛した。私はあなたに愛されたかった。私は生涯を通じてあなたの愛を捜し求め続けた」・・・ローゼンバウム氏は作品理解のために、ドライヤーの“Family Plot” 出生の秘密――内容はWikiのドライヤーの記事がほぼ準じていると思います――を調べているのですが、ドライヤーが捨てられた子であったという事実を思い合わせると、私は「母の愛を捜し求める旅、自らの出生を祝福されたものにする旅」が、ドライヤーのobsessionだったのかなと思います。そして(当時としては)scarlet womanであった生母の生涯を浄化すること・・・ローゼンバウム氏はこの映画について、「ドライヤーが映画で行ったことは、原戯曲のGertrud像を浄化したことだ」と述べているのですが、Gertrudの生を肯定し、Axelに表現される自由思想に触れる機会を与え、その生涯を全うさせること・・・映画の魔術の中でそれを実現することが、彼の生母への愛であり、自らの生の肯定でもあったのかなと思います。

確かにobsessiveですね。描かれているものは狂気だと言われればそれはそうだとも思います。作品世界を、自己没入的、自己愛的にも感じます。Gertrudが自分を中心に置いた卵形の世界に閉じこもっていると言われればそうであるとも思います。しかし夫からも愛人からも贈られた鏡を、Gertrudは自らの部屋には吊るさないわけです。Gertrudにはうぬぼれ鏡は不要なんですね。私はドライヤーの生涯や信条、好きな映画などについて、ほとんど何も知りませんが、この辺りの主人公の律し方は本人が投影されているのかな?と想像します。

見終わって色々考えたり、人のレビューも読みましたが(そんなに読めていないのですが)、Ismael様の注目される「技法」について語っているものでこれと言ったものが見当たりませんでした。いくつかのレビューでは、「ドライヤーのテンポは大体が遅かったが、この作品は遅すぎてわずかなドラマも生み出さない」とか、特に技法についてではないにせよ、古臭いとか、中身が空っぽである、という意見も有りましたね。Ismael様から見て、特にこの演出や技法(映画的話法)に注目、などありますか?

ニューヨークタイムズの1966年のこの批評は、酷評の中でも最右翼かなと思いますが、酷評なりになかなか名調子で読ませますね。datedでoldだと言っています。
>ttp://www.nytimes.com/movie/review?res=9D0CE0DA123DE43BBC4B53DFB066838D679EDE&pagewanted

この評を受けてなのかどうか、ローゼンバウム氏は「この作品を“out of date”(時代遅れ)と評するのは間違っている。“out of its time”と呼ぶべきだ」と言っていますが・・・私はこの言葉の意味を「浮世離れ」と解釈したんですけどね。正しいでしょうか。

いずれにしても、この映画は「失われたもの」「存在しなかったもの」をもう一度回復したり与えなおしたりする旅・・・時空を超えた旅、夢の中の旅、のように感じます。筋書き自体は『恋愛三昧』と同じく、表層的にはあまりにもありふれた、典型的な不倫劇なのですが。
どうも散漫な内容の感想になりました。作品へのコメントで、人物が交わらず、互いに独り言を言っているようだと言うものがありましたが、この感想も独り言のようなものになってしまいました。しかしドライヤーは自由な受け止め方を許してくれるように思います。
No.376 - 2015/02/05(Thu) 07:34:24
Re: クラシック映画の名作って本当に面白いんだろうか? / Ismael
B&Wさん

いま仕事が忙しくて『ゲアトルーズ』を見なおした返事を書けないことを先ずお詫びします。

あと、このスレがかなり長くなったのでこの辺りで一旦おしまいとしませんか?


切り返しショットというのは、映画の物語を効率よく語るためにハリウッドが考案し、発展、完成させた技法ですね。
この『効率よく語る』ということは『観客に解りやすい』という側面が含まれており、これもまたハリウッドのイデオロギーの表れの一つと考えます。


ですからこのイデオロギーに従わない、反発する、なじまない映画作家は世界中にいるはずです。

かつて『吸血鬼』で死体のPOV画面を使ったドライエルもその一人だと思います。

『ゲアトルーズ』で彼がやったことは、ハリウッドイデオロギーとしての切り返しを使わずに各場面の登場人物をいかに描くかという工夫だったと思います。
No.377 - 2015/02/05(Thu) 14:59:00
Re: クラシック映画の名作って本当に面白いんだろうか? / B&W
Ismael様

お忙しくされておられるところ、早々にお返事ありがとうございます。私もスレが長くなってしまって、どうかなと迷いつついました。

>切り返しショットというのは、映画の物語を効率よく語るためにハリウッドが考案し、発展、完成させた技法ですね。
>この『効率よく語る』ということは『観客に解りやすい』という側面が含まれており、これもまたハリウッドのイデオロギーの表れの一つと考えます。



>ですからこのイデオロギーに従わない、反発する、なじまない映画作家は世界中にいるはずです。

おっしゃりたいことの大意は了解しました。

なかなかこういう機会がないと見ないですからね。特にドライエルなどは。

結局『市民ケーン』『ゲアトルーズ』『太陽は光り輝く』(The Sun Shines Bright 1953 John For 7.2)を見ました。こんなことがなかったら見なかったでしょう。
きっかけになって色々なことを教えていただきました。ありがとうございます。
No.378 - 2015/02/06(Fri) 00:36:14
「ホンドー」(1953) / マグカップ
「ホンドー」(1953)がTV放送されたので観ました。
ジョン・ウェインの西部劇ですが、あまり有名ではないので期待してませんでしたが、私は大変気に入りました。
序盤でウェインが斧を削ったり、馬の蹄鉄を付けるシーンは西部劇らしくて良かったです。また、アパッチが花婿候補の特技を見せるのも、よく調べたな、と思いました。アクションシーンも豊富で退屈しませんでした。
過去ログを読むと、グレン・フォードが主演の予定でしたが、ジョン・ファローとの関係で、実現しなかったとあります。私はジョン・ファローは「夜は千の眼を持つ」と「大時計」ぐらいしか知りませんが、この「ホンドー」の方が面白いと思いました。まあ、ウェインの魅力で持っていると思いますが。
No.363 - 2015/01/26(Mon) 19:28:38
Re: 「ホンドー」(1953) / ママデューク
マグカップさん、今晩は。

本作、1950年代の3D映画でしたね。おおよそ西部劇らしからぬ、青や赤、黄色のカラフルなタイトルは3Dだと正に浮かび上がって来るのでしょうね。劇中、デュークとルドルフォ・アコスタとの殴り合いも互いの拳がカメラに向って来ます。

この映画、よく「シェーン」が引き合いに出されるのですが、私はさほど「シェーン」は感じませんでした。シェーンはどちらか云うとプラトニックだけど、ホンドーとこっちの人妻は能動的ですよね。むしろジョン・ファーローには、この作品の前に「荒原の疾走」と云うのがあって、こちらに描かれるハワード・キールの奥さん(エヴァ・ガードナー)に密かに想いを寄せるロバート・テイラーの方が、「シェーン」を彷彿とさせましたね。

「ホンドー」には、フォード西部劇でお馴染みのクリフ・ライオンズ御一党の顔が見えます。まだこの頃はウェインのダブルはチャック・ヘイワードがやっていたようで、夫人の牧場で、ホンドーが荒馬を馴らす場面は、このチャックがウェインの吹き替えで大写しになるのはご愛嬌でありました。

お書きの通りグレン・フォードは、どうも監督のファーローが嫌いで役を降りたようですが、映画はヒットしたのでデュークはグレン・フォードに言ったそうです。「ホンドーを降りてくれて、ありがとう」と、しかし、同じくウェインの製作した「七人の無頼漢」では、彼は「捜索者」で出れなかったため、主人公をランディ・スコットにしました。しかしこの映画の好評を聞いたときには、「オレが演るべきだった」と悔しそうに言ったそうです。
No.364 - 2015/01/26(Mon) 20:41:25
Re: 「ホンドー」(1953) / マグカップ
ママデュークさん、丁寧な解説をありがとうございました。

>よく「シェーン」が引き合いに出されるのですが
冒頭の10分ほどは、正に「シェーン」だと思いました。

>「荒原の疾走」
これは未見です。

>ホンドーが荒馬を馴らす場面は、このチャックがウェインの吹き替えで大写しになるのはご愛嬌でありました。
これは明らかにウェインではありませんね。こういう代役は、私は好きではありません。

>「七人の無頼漢」、、、「オレが演るべきだった」と悔しそうに言ったそうです。
これは初めて聞きました。私は「七人の無頼漢」よりも「ホンドー」の方が面白いと思います。
No.365 - 2015/01/26(Mon) 22:27:12
Re: 「ホンドー」(1953) / Ismael
マグカップさん

私は昨年『ホンドー』のブルーレイを買いました。

画質はあまり良くありません。というか時々劣悪な画質の場面が現れます。

DVDは、ジュネス企画からの発売なので中古でも2500円程度しますがブルーレイは、この価格よりかなり安いです。
私は中古店で、1300円位で買ったと思います。

『ホンドー』ってあまり有名ではないんですか?私は結構有名だと思っていました。

出だしはちょっと『捜索者』を思い出させますね。

IMDsによると最後のインディアンとの戦闘場面は、ジョン・フォードが演出したとのこと。
No.368 - 2015/01/27(Tue) 10:36:26
Re: 「ホンドー」(1953) / マグカップ
Ismaelさん、

>IMDsによると最後のインディアンとの戦闘場面は、ジョン・フォードが演出したとのこと。
これは知りませんでした。ありがとうございました。
No.370 - 2015/01/27(Tue) 12:54:15
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