昭和四十一年十二月に両親に対して一年間友と一緒にアルバイトしながら国内旅行をしたと嘘の報告をして帰宅の途に着きました。本当は、彼女との同姓生活を終えて帰宅したのです。
昭和四十二年に運が良くて得意の物理の問題が簡単に解けて苦手の英語の低い点数を補完の上に合格判定されて、四月に某大学に入学をしました。
大学生活にも慣れてきた五月頃に彼女に電話して大学入学を報告した後に同棲中のアナルセックスや月経中の変態セックス等の懐かしい思いで話をしていると、受話器から病院の呼び出しのスピーカーの音声が聞こえて来ました。私は彼女に対して病院に居るのかと質問をすると、最近頭が変で急に家計簿の計算が出来無く成って病院で検査を受けたら脳腫瘍の為に脳が圧迫されているから直ぐに入院検査を勧められた事を告げました。
入院する前の三日の間に、ゴム衣装や浣腸用のゴム器具を廃棄して身の回りの整理をして病院に行きました。入院手続きをして翌朝から精密検査が済み次第脳外科での手術をするか又は、手術不能かの判定をするとの事でした。
私は、涙を流しながら直ぐに会いに行く事を伝えると、従姉妹の姉が付き添っているから変な目で見られるのが困るので来ないでと答えました。そして、ゴム好きなあなた宛にゴム引きレインコートやレインスーツのゴム合羽とゴム引きトレンチコートと黒綿の替えゴム月経を段ボール箱に詰め込んで送ったと言いました。
三日程して段ボーの箱が届きました。
私の部屋に戻ると箱に手紙が入っていたのを取り出して読みました。
内容は、悪性脳腫瘍と全身のリンパ節に癌が転移しているので手術不可能でエックス線照射治療と薬物療法をするとの事ですが、末期癌で死を覚悟していると書かれていました。それを読み終えると私は、涙が頬を伝わり流れていました。
穿いていた替えゴム月経帯の上からゴム引きレインスーツを取り出してこのゴム合羽を着てゴム引きシーツを敷いた布団に潜り込みました。ゴムの匂いに包まれて楽しかった思い出を走馬灯の様に蘇りますが、心が空っぽに成って行く思いで眠りに就けませんでした。
六月の小雨降る昼前に手紙が届きました。
その内容は、彼女の従姉妹から亡き彼女の日記帳に記載されていた知人の住所リストを見つけて逝去した事の報告と生前の感謝の意を書き添えた手紙でした。
それから一年を過ぎた昭和四十三年の十一月に長老の従兄弟が逝去したとの連絡を受け茨城県の筑波に行きました。
飛行機の方が早く行けるが、私は敢えて三年前に開業した東海道新幹線が珍しくて葬儀参列の為にそれの乗車して行きました。東京からローカル線に乗り換えて一日掛けて全国チェーン展開している某ホテルに二泊三日の予約したホテルに着くと、直ぐに喪服に着替えて親戚の家に行きました。
三日の昼過ぎに近くの菩提寺にて葬儀と納骨を済ませて東京に立ち寄り新宿御苑近くの大人のおもちゃ店マルゴと横浜の懐古堂に行きました。
これらは、当時のエロ雑誌の中に「風俗奇憚」や「マニアクラブ」が発刊されていたページの最終章に。黒綿の替えゴム月経帯や生ゴムオムツカバーや浣腸用ゴム製品等の販売宣伝が記載されていましたのを知りゴム製オムツカバーとゴム浣腸用の商品を購入しました。
次に横浜に立ち寄り懐古堂に行きました。当時の懐古堂は、雑居ビルの二階の一部屋にひっそり販売していました。ドアーを開けて入ると店主の男性と女性店員が居ました。黒綿の替えゴムの月経帯とゴムの月経帯屋ゴムのオムツカバーを着けた女性モデル写真セットを購入しました。写真に掲載されたモデルに女性は三人が写っていました中の一人が、女性定員だと直ぐに判りました。横浜から新幹線に乗りトイレで新品の黒綿の替えゴム月経帯とゴムのオムツカバーを穿いて気持ち良く帰途に着きました。
昭和六十四年初春に年号が変わりまして、平成元年に成りました。
身の回りの防水衣料製品もナイロン繊維やゴム引き防水の他にポリ塩化ビニルPVC やポリウレタンPUの防水生地が多用使されてゴム素材の衣料製品が徐々に消え去る運命を感じて寂しく思いました。
しかし、オークションに古い昭和のゴム引きレインコートが出品されると落札出来無くとも嬉しく大事に長く使われる事を、心から祈っています。
これからも元号年代を超えて替えゴム月経帯やゴム引き合羽等を作り続けて欲しく思いました。
ゴムフェチの私は、他の人から普段使い用に違和感の無いゴム製品を身にまとい体温で温められたゴムの匂いが私の性感を刺激して母体に回帰する気持ちに成ると同時に昭和の女性に生まれ変われる思いを空想しながらも経血の代わりに透明な愛液を黒綿の替えゴム月経帯に垂れ流し続けて「ゴム女に成りたいー」と叫ぶのでした。
乱丁乱文の程お許し下さい。
護謨押目 作 No.133 - 2024/07/13(Sat) 19:04:58
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