一九四五年八月九日 小倉上空は曇り 長崎は快晴だった この日の空を 忘れまい |
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No.73374 2007/08/23 09:05 kit |
この日の空 が良く効いていますね。 |
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No.73375 2007/08/23 09:24 中谷京華 |
長崎に原子爆弾が投下されたことによるキノコ雲などの映像が残っているそうですね。 |
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No.73376 2007/08/23 10:21 山田武秋 |
8月9日の原爆投下のターゲットは、最初は小倉だったと伺ったのは、小倉にある九州歯科大学出身の歯医者さんからでした。 |
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No.73381 2007/08/23 13:41 会津太郎 |
日本への原爆投下についてのアメリカ人の見解は、異口同音に、戦争終結を早め、お互いの犠牲を減らすために必要だった。その結果、天皇は戦争終結の決断を8月15日に宣言し、日本人の犠牲は一億総玉砕にならず、あの程度の犠牲ですんだのだ。これが原爆投下に対するアメリカの総括だった。果たしてそうだろうか。百歩譲ってその見解のとおりなら、広島への原爆投下で十分ではなかっただろうか。その3日後に長崎にまで原爆を投下し、膨大な犠牲者を出す必要があっただろうか。広島への原爆投下のあと、アメリカは天皇にポツダム宣言の受諾を打診すべきではなかっただろうか。長崎への原爆投下は原爆の実験ではなかっただろうか。千歩譲ってその解釈はいろいろあるとしても、原爆投下の悲惨な犠牲を事実としてアメリカ国民へ知らせようとしないアメリカ人の姿勢には大きな疑問を感じざるを得ない。(数年前のスミソニアン博物館による原爆展示会への妨害などがその例だった。)いいわけはいろいろあるにしても、加害者としての事実は事実としてアメリカは原爆投下の犠牲を直視すべきであり、これは水に流したり、日米友好のために妥協すべき問題ではないと私は思う。おっと熱くなってしまい、長くなり、すみませんでした。でも重要な問題なので、みなさんはどう思いますか。 |
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No.73385 2007/08/23 18:40 えんた |
アメリカ人は原爆のことについて罪の意識を持ちすぎる、とジーン目良さんが言っていました。その罪を自責する会合が無数にあると言います。 アメリカ人だからみなが口拭いしているというふうに、思わないことが大切とそのとき私は思いました。 どちらかと言えば、政治的な人たちが、自分の弱みを見せないために、自分たちをアキューズしていないように見せかけている、一般の人々は十分身を責めている人が多い、と感ずるほうが正しいのではないかと思います。 私はむしろ真珠湾攻撃の奇襲について、自分を責めない日本人が多いことに驚きます。歴史的な背景はともかく日本人はいざとなったら卑怯な奇襲をする人たちではないかと考える大きな根拠となっているのです。 恥を知らねばなりません。私は小学生に「日本人はなぜ真珠湾を奇襲したのか」と聞かれて、顔を挙げられない思いがしました。いいわけ出来ないことです。 堂々、宣戦布告してからやるべきことですから。 勝つためにそうすることが正しいならば、相手が勝つために何をしようと責められないのでは? ☆ アメリカ人は自分を責めすぎる人が多いことは確かでしょう。原爆を落とした人たちは、ほとんどが発狂したかCENSOREDしたと聞いたことがあります。 日本人だったらどうでしょう。それほど真剣に自分を責めたかどうか、考えてしまいます。 |
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No.73387 2007/08/23 21:19 山田武秋 |
戦争についての議論は、論点をどこに設定するかによって、変わってきます。 原爆投下(大量虐殺兵器)がいけないという論点は、では大量虐殺兵器でなければ良いのかという疑問があります。 戦線布告に関しては、国際法上、違反は卑怯ということになりますが、これも「はじめに戦争ありき」を前提とした 議論であることは明白です。自衛権は自然法であるという主張もありますが、これも「戦争ありき」を前提としている ことにかわりはありません。これらは全て今ある世界を追認した中出の問題です。では、人はみな、現状を追認する 範囲内で考えなければならないのでしょうか。権利は常に進化し、法律も常に進化の途上にあるものです。 そこで詩人である皆さんに考えていただきたいのは、「戦争のない世界」とはどんな世界なのかということです。 「今まで、戦争のなかった時代はない。人間は“戦う生き物だ”」と居直ることは簡単です。そんなことを言うだけなら 政治家もいらない。詩人もいらない。床屋や風呂屋の談義でも、それくらいのことは話題になっています。 今まで戦争のない時代がなかったとしたなら、戦争のない世界とはどういう世界かイメージすること、 そのイメージを具体的な形(創作)として提示すること、それこそがクリエイターとして文芸に携わるものが 真価を問われる場面ではないかと思っています。問われているのは、常に現状を打開する創造力です。 仏教における五戒の第一戒は「不殺生」、「CENSOREDな」ということです。 晶子の「君死にたまふこと勿れ」ではなく、その中から「人を殺せとをしへしや」をタイトルに持ってきた 理由もそこにあります。これは、この仏教の「不殺生」やモーゼの「人をCENSOREDことなかれ」から 「戦争」を前提としない社会の共生の道を問いかけるという意味を込めたものでした。 国益にしろ自衛権にしろ、「戦争を前提」とした議論はいくらでもあります。「戦争がない」という前提にたって どのような世界観を提示できるか、これがクリエーターに突き付けられた最も重い課題だと思っています。 |
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No.73388 2007/08/23 21:28 山田武秋 |
「宣戦布告」など、タイプミスが多々ありました。斟酌くだされば幸いです。 |
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No.73397 2007/08/24 01:15 会津太郎 |
えんた先生、ていねいなレスをありがとうございます。問題の本質を追求するために、もうしわけありませんが、私なりの私見を追加させてください。 先生の意見を私なりに要約させていただきますと、第2次世界大戦では、日本は真珠湾奇襲のように卑劣なことをしたり、アメリカは原爆を落としたりしているが、戦争はお互いに加害者でもあると同時に被害者でもあるのだから、つまりお互い様なのだから被害者意識の立場から相手を責め合うのは不毛ではないのか、ということかと思います。(間違っていたらすみません。)確かに、一応決着のついた過去の問題について今さら責任追求するのは不毛だと思いますが、戦争を繰り返さないためには、過去の戦争の悲惨な事実は悲惨な事実としてきちんと認識しておくべきではないでしょうか。今でも問題になっているのは、日本のの真珠湾奇襲問題、それから中国が問題にしている日本軍による南京大虐殺事件、そして日本が問題にしているアメリカの原爆投下問題などがあると思います。それぞれの国が被害者の立場から相手の国を非難し,責めているわけですが、いまさら責め合うのは、不毛なことだと私も思います。だからお互いの国を非難したり、責めたりするのはもうやめるべきですが、客観的な事実は事実として検証し、その事実をお互いの国民はきちんと認識し、そのような悲惨な事実をこれから繰り返さないような自覚をしなければいけないのではないでしょうか。加害者としての事実を認識することは、国民としてプライドが傷ついたりしますが、やってしまったことは事実であり、それを自覚することから反省や改善が始まるのではないでしょうか。ところが自国にとって都合の悪い事実から顔をそむけようとしたり、自国の子供達に事実を知らせようとしなかったりする教育が、残念ながら多くの国でなされています。しかしその一方では原爆投下の映画を作ったアメリカの若者や南京大虐殺の共同研究をしている学者など、事実を検証しようとする人々も確かにいるのです。そのような草の根運動は自国の国益やプライドを離れた真実の追求であり、被害者であると同時に加害者にもなってしまう悲惨な戦争についての認識の運動だと思います。 このような観点から、お互いの国の責任を追求するのではなくて、戦争の事実を検証し真実を追求することは、不幸な戦争を繰り返さないために、そして私達が戦争の被害者にも加害者にもならないためにとても重要なことではないでしょうか。 |
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No.73399 2007/08/24 06:17 山田武秋 |
会津さん、横からごめんなさい。田上さん、話が飛躍したことお赦し下さい。 戦時における大量虐殺行為などの悲惨な事実ときちんと向き合うことは重要だと思います。 そこで、これまで様々な戦争体験と向き合って来た経験からいえば、戦争の悲惨は、原爆 などの大量虐殺だけではないということです。戦争で殺された者、死んでいった者すべて が悲惨である。戦時下で暮らす悲惨、生き残ったものの悲惨。あらゆる悲惨を、戦争はも たらす。戦争のさまざまと向き合っていると、そういう思いを禁じ得ません。 「加害」「被害」という問題提起も、適切かどうか。大切なことを見逃してしまうような 気もしています。「人を殺せとをしへしや」という投げかけであれば、宗教・イデオロギ ー等の違いを超えて不戦のメッセージになると考えたのですが・・・。外国の方の反応は まだ私のところには届いておりません。皆さんのご批評も伺いたいと思っています。 いずれにしろ、戦争はだれにとっても「悲惨」なのだから、そうなる前にみんなで一生懸 命考える。戦争で起きたことは洗いざらい白日の下に晒す。戦争に繋がるようなことは トコトン話し合い、みんなが納得するまで何事も決めない(幸い、日本は「戦争放棄」の 憲法を既に持っていますし、これは元をただせばアメリカが考えたものですから、世界の 場でも十分に説得可能な理念理想だと思います)、などいろいろ方法はあると思います。 こういう状況の中で、文学に何ができるか、それも皆さんと一緒に考えていければと 思っています。
時代に没頭してゐては時代を批評する事が出来ない。私の文学に求むる所は批評である。 (「時代閉塞の現状」石川啄木) |
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No.73404 2007/08/24 17:45 会津太郎 |
山田さん、いろいろ御教授や示唆をありがとうございました。いろいろとためになり、私の思いを深めるきっかけになるだろうと思います。意見交換も長くなり過ぎると田上さんにも心配をかけてしまうので、このあたりでいったん閉じたいと思いますが、ただ2つだけ問題を残し、提起しておきたいと思います。 1つ目は1人の殺人も悲惨であることは当然ですが、何千人何万人の大量虐殺とは、悲惨さが桁外れに違うと私は思います。だからこそ通常兵器による戦争は今も行なわれていますが、核戦争は行なわれていないのだと思います。それは核戦争がもたらす悲惨さが広島以上の悲惨さだと政治指導者達も考えているからではないでしょうか。 2つ目は戦争五行歌集の題名がなぜ「人を殺せとおしへしや」なのかがわかりました。しかし理屈でわかっても、この題名には感情的に違和感を感じるのです。それは7・5調から解放された五行歌集なのに、なぜ7・5調の題名なのかという疑問です。そして口語が中心の五行歌なのに、なぜ文語調の題名にしたのか、そして五行歌集なのに、なぜ短歌歌人として有名な与謝野晶子の詩から引用したのか、その理由は理屈としてはわかりましたが、せっかく五行歌という新しい詩歌形式の歌集なのに、なぜ古い文語の7・5調の題名なのか、やっぱり違和感を感じざるを得ないのです。これは理屈を越えて、感性でそう感じてしまうのでしかたがないのです。新しい詩歌形式の歌集には、新しい題名がふさわしいのではないでしょうか。たとえば戦争五行歌からの詩句を題名にするとか。 これ以上書くと長くなりますので、この2つを問題提起させていただいて、お互いに、いえ、みなさんで思いを深め、またいつかその思いを交換し、さらに自分自身の思いを進化させていきませんか。 あっ、田上さん、お歌から外れるようなことも書いてしまい、大変失礼しました。 |
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No.73409 2007/08/25 06:18 田上洋治 |
「平和学」の創始者の一人ガルトゥングは、ただ戦争がない状態を「消極的平和」、戦争の原因となる差別や経済的格差なども解消された状態を「積極的平和」と定義し、「積極的平和」の構築の大切さを提示しました。私の「平和研究」のささやかな成果は、軍需から民需への転換が肝心だというものでした。皆様レスありがとうございました。 |