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74374木の花 2007/10/19 17:38
酢漿草=かたばみ  小さな命の存在に、目を留める人は少ない。  



地べたを這う酢漿草の
小さな黄の花に
蜜を求め来る
灰色の蜆蝶
ここにも命の営みがある




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No.74376 2007/10/19 23:42 きなこ
 ほんの小さな出来事から、命の営みを見つけ、詠うことができるのは、素晴らしいです。




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No.74380 2007/10/20 09:19 中谷京華
かたばみもしじみちょうも幼い子は目にすると喜ぶ子は喜びますよね。
目線がいくかいかないか、時間的な影響や関心事によって命の営みに対する感じ方もちがうのだなと思いました。

74369山田武秋 2007/10/19 09:38
音・19 宇宙にはさまざまなノイズがあり、それが秘密を解く手がかりになっています



音(ノイズ)の
ほんとうの
正体を
誰も
知らない




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No.74372 2007/10/19 12:36 会津太郎
たとえ今はノイズに聞こえても、だんだんとサウンドに聞こえる場合もありますね。ストラビンスキーの「春の祭典」はパリで初演された時、ブーイングの嵐だったそうですよ。おそらく感性が慣れていくんでしょか。




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No.74373 2007/10/19 14:39 山田武秋
会津さん、どうもありがとうございます。
宇宙背景輻射は、宇宙の心音なのか、宇宙が奏でる音楽なのか、あるいはなんらかの
メッセージなのか分かりませんが、音楽も宇宙背景輻射も波。残念ながら宇宙背景輻射
を音楽として楽しむ能力を人間は備えていませんが、「みえないもの」「未知のもの」
について思いを巡らす想像力が与えられ、宇宙が奏でる音楽にさえ耳を傾けることがで
きる創造力が与えられていることに感謝しております。

74365中谷京華 HP 2007/10/19 09:05
音 18



心の波長に
多様に
働きかける
メロディーや
音の響き




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No.74368 2007/10/19 09:36 山田武秋
「多様に」がいいですね。雑多くらいがいちばん落ち着きます。
京華さんの真摯な生き方には、折れそうになったとき、勇気をいただいております。




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No.74377 2007/10/19 23:46 きなこ
スッキリしていて、リズムも良く、心に響いてきます。いろんな音を想像しました。これで、また、想像力がついたかしら・・・。ありがとうございます。




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No.74379 2007/10/20 07:51 中谷京華
山田さん、きなこさん、返信をありがとうございます。
映画やドラマなどでの音楽の効果というのはけっこう大きいなと以前から思っていましたが、それ以前に子どもの頃から音楽にふれながら育ってきて、考えごとをするときなども音楽に感情移入したりしていた時期がそういえば、ありました。
最近はその頃に比べるとずいぶんと音楽からは離れましたが、日常的な音には囲まれてますよね。

74355山田武秋 2007/10/18 22:29
「自由」について考えること



西欧の自由は
戦いとったもの
東洋の自由は
心をさえ捨て
欲から自由になること




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No.74357 2007/10/18 23:04 きなこ
今晩は。
人類の歴史は、ある意味で、自由を獲得する歴史ともいえますね。
この歌で、自由について考えさせられます。問題提議の歌をありがとうございます。




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No.74358 2007/10/18 23:11 木の花
大づかみに言えば、この通りかも知れませんが、私など、西欧型のところが多いです。




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No.74359 2007/10/18 23:23 山田武秋
きなこさん、木の花さん、どうもありがとうございます。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」といいますが、禅では不自由と思うなら、その不自由と思う心
を捨てればよい、と考えます。ただ、この考えが戦争などに悪用されて、多くの方が悲惨な死に
追いやられました。だが、自分だけよければよい、人間だけがよければよいという社会の中での
「自由」が人類の生存自体を脅かしている現在、一木一草や路傍の石にさえ命を見、人間のおご
りを戒める「東洋的自由」に、私は将来の希望を感じています。詩歌に関して、西欧は「哲学」
であるのに対して、日本の詩歌は「癒し」であり「気付き」であるとよくいわれますが、その理
由も、こうした「自由」というものに対する志向の違いだと思っています。自己を消すことで、
自然の心と一体になり、自由に遊ぶ。有名な荘子の「胡蝶の夢」も、そういう自由であろうと私
は考えています。そして道は遥かにおぼろですが、私自身の「思い」の「対象」は、そういう世
界に向かっています。その「気付き」の歌を詠んでいきたいと思っています。




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No.74362 2007/10/19 07:40 中谷京華
生まれ育った環境が一個人の自由という思想の捉え方に及ぼす影響はけっこう大きいかなとふと立ち止まって考えました。
肉体は環境が及ぼすところの影響にどうしても縛られますし、思考も存在あっての心の動きや働きかけから派生しますよね。




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No.74367 2007/10/19 09:28 山田武秋
京華さん、読んでいただいてありがとうございました。
こういった書き込みは、でも、やっぱりお互いにきちんと向き合って話し合うことかも
しれませんね。ある意味、こうしたことは多くの先人も考え至ったことで、「実践」が
問題です。禅は日本文化に通底する水や空気のようなものですが、これも実践の教えで
す。先を考えれば心を捨てる前に、心が折れてしまいそうな道のりですが、ため息をつ
きつき、「目標」だけは見失わないよう、いけたらいいなあと思っています。




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No.74378 2007/10/20 07:33 えんた
 なかなか面白い考え方ですね。「自由」ということについて、西欧と東洋の違いを私は思ったことがあまりなかったような気がします。
 私は結局欲は捨てられないと考えているので、東洋の自由が「欲を捨てても自由が欲しい」という欲と考えます。ただ、「自由」という概念で東洋は考えて来なかったようにも思われます。意味的には非常に近いでしょうけどね。
 内面的な到達を目指す積極性は、あったかもしれない。火の中で座禅して死ぬことは、相当な戦いであろうと思います。私はその仲間に加わりたくないです。よく調べてませんが、あのお寺、政治に関わったのでは?
 アメリカの英語では、Libertyが戦い取るべき切ない自由で、Freedomが感性的な自由と考えられているようです。ラングストン・ヒューズの有名な詩にそうあります。
 確かに西欧の場合の自由は、貴族が戦い取ったようなものという気がします。建前はともかく、欧米はまだ貴族社会でしょう。
 問題を拡散させてしまったような書き込みですみません。倭人のもの思いの世界では、「自由」の概念はちょっと伝統も、示された考え方もなく、さてどうしようと思うところがあるからでしょうか。
 たとえば「しみじみと自由について考える」と言った場合、この「自由」という言葉そのものが浮き上がっているような気がしませんか? これは日本人の言葉の世界から浮き上がっていること、余所の国の問題というような感じです。つまり頭の言葉で、肌で感ずる言葉でありません。
 では、問題がちがうかもしれない、と考えるのが私のものの考え方です。自分なりに、よく考えたいと思います。「自由」について考えるのは頭の中の欧米化かもしれない。これから、ほんとうに人間の中心にある重要な問題として考えるべきことかどうか、東洋人のほうが真剣に検討してかかるほうがいいような気がします。
 しかし、一方で政治的に「自由主義」は正しいような感覚があります。歴史がそれが正しいよと答えているようなところもあります。つまり政治的に自由を唱えることは、建前としてはとてもよい結果をもたらしたが、精神的、内面的には、この言葉が正しい問題の設定になっているかどうかはわからない。、というのが、私の持つ感じです。
 精神も、内面も、本来自分によって立っているはずだから、問題にすべきことでもない、ということは言えるかもしれませんね。自分に由って成っていない精神や内面があるとしたら、それは誰のものでしょう。




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No.74381 2007/10/20 10:58 会津太郎
歴史的に見ると、欧米の戦い取った政治的な自由は、えんた先生がおっしゃるようにlibertyだと私も思います。その訳語を「自由」と訳してきたけど、厳密に言えば「解放」のほうがよかったのではないでしょうか。戦い取った自由というのは、ある政治的な拘束力(身分制など)からの解き放たれた「解放」という意味であって、内面の自由(freedom)ではないと思うんです。そして日本の政治的な自由は、ほとんどお上や欧米から与えてもらった解放だと思います。
ただ詩歌が追求する自由は、基本的に政治的な自由つまり解放(liberty)ではなくて、内面の自由、精神的な自由(freedom)ではないでしょうか。そこにある自由は人間としての内面の自由なので、これからは西洋的な自由と東洋的な自由の違いよりも、あくまでも人間としての共通の、普遍的な自由を追求すべきではないでしょうか。それを前提にしているからこそ、五行歌の世界化、普遍化が可能になると思います。




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No.74382 2007/10/20 11:41 山田武秋
えんた先生、ていないなご回答を賜り、恐縮しております。ありがとうございました。
会津さんのお考えに、私も賛成いたします。

先生のご指摘の通り、「自由」というのは漢語で、これをLibertyなりFreedomに当てた
のでしょう。鈴木大拙のお話をアメリカでなされた先生におっしゃるのもなんですが、禅
を「究極の自由」と欧米に紹介したのは鈴木大拙です。ですから、私の述べたことはほぼ
鈴木大拙の解釈に添うと思います。そして「心」を捨てるという禅の思想は東洋の神秘主
義と、欧米人には映ったのだろうと思います。
同じように「欲」についても、やまと言葉からみれば仏教とともに移入された漢語で、や
はりしっくりくる概念でもないように思っています。「悪心(あくしん)」とかよこしま、
「善き心根」とかになるようです。ちなみに古語辞典には「自由」も「欲」も「欲望」も
ありません。また「欲」についていえばフロイド以来のイメージが強くあり、えんた先生
の語る「欲」について理解しようとするときには、どうしても心理学的な概念が離れなく
先生が「自由」についてしっくりこないと同じような違和感がつきまといます。

これは根拠のない勝手な私の感じかたですが、「欲」という漢語は「谷」を「欠く」
と表わされています。つまり人生「山ばかり」を渡るようなある種の力みを感じます。
この「力み」「いきみ」ばかり、というのが、とても窮屈で、せかせかしたものに感じら
ます。山あり谷ありで、どうしても力が入らない、何をやってもうまく行かない、生きる
気力さえ萎えてしまう。「欲」すらわかない、そういうときのほうが多いし、そんな感じ
でただ惰性のように生き長らえている人も多いと思います。そういうときに、ただため息
をついて、もう一日生きる力を得る。そういった谷底の生に添うて生きる弱きもの、すな
わち「俗」に添って生きたい、というのが、私のスタートです。
「自由」でも「自在」でも「融通無礙」でもかまいませんが、とりあえず一般的な「自由」
は、人間を含めた万物を貫く自然本来の法であり、それに気付くことが「極める」ことで
はないかと、私は考えています。自由は私のものであり、万物のものでる。だから誰のも
のでもなく、あまねく等しくある。言葉で表わせばそういうことだろうと考えております
が、それを「谷」を欠いた「欲」にではなく、「谷」に添う「俗」のなかで、希望も持て
ず意欲もわかない生き様のなか、やっとためいきついて生きる人々のなかに探っていけれ
ばと考えております。

釈迦に説法のような、無礼、不遜はお許し下さい。ただ、このような「思い」をいだき
それを深めることができるようになったのは「五行歌」と出会い、先生の時代に媚びる
ことのない断固とした信念にもとずくお話に導かれてのことです。また、そういった
「自由」な五行歌の会のあり方が、かつての松下村塾のように、次代の世界の文化をリ
ードする人材を排出する土壌になっていくと思います。「草壁塾」とは、そのようなも
のであったと私は理解しております。
先生を囲んで、こうした対話ができることは、本当に勉強になります。不束ものではあ
りますが、これからも御指導御鞭撻下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。
どうもありがとうございました。

74348会津太郎メール 2007/10/18 13:14
集団社会の人間関係を越えて・・・



友達関係とか
師弟関係とか
そういう人間関係を越えて
自分の思いを深め
真実を追求する




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No.74360 2007/10/18 23:40 山田武秋
されど、人間関係。好き師、好き友との出会いですね。




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No.74363 2007/10/19 07:48 中谷京華
昔を振り返ってみた時、相手との関係に真実に向かう意識の思想的重なりがあるとお互いに理解し合えたときや語り合えたときの思い出などが鮮明に残る面があるかなと改めて思いました。
その一方で、どうにも忘れてしまった人はどうにも思い出せないですから、人との関係というのは記憶や忘却にも働きかける側面がありますよね。




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No.74366 2007/10/19 09:12 山田武秋
「思い」の深さ、というものは、「見る」深さらもしれません。目の前に見えているものの
「見えない部分」をどれだけ見ることができるか。「見えている」ものが持っている過去・
現在、夢、希望そして偽り、そういったものも、実は瞬時に見ています。またある時は、
ないものまで見てその幻影に怯える。その幻影は、じつは自分の影だったりします。
「見る」ということは「観る」「視る」などと表わしたり、「心眼」でみるといったり、
実にさまざまなインプットの形があり、このインプットの質・整理の仕方が「創造力」そ
のものではないかと最近は思っています。ですから、師に学ぶと言うことも、単に言葉を
学ぶだけではなく、実は師の生き様に学ぶところ大です。対話も、言葉だけではなく、
生き様を「み」ながら成り立つもので、字面だけの対話はどうしても空疎なものになりま
す。メールやウェブだけでは、そのもっとも肝心な「生き様」が「みえない」ですから、
学びとしては肝心なところが欠けているのだと思います。




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No.74370 2007/10/19 11:39 会津太郎
山田さん、京華さん、丁寧なレスをありがとうございました。作者の自己解説というのもなんですが、私がこの歌のこめた思いは、人間関係と真実です。私達はいろんなしがらみによって遠慮や配慮をしながら、真実を追究していくのですが、時々、人間関係によって真実が見えなくなってしまう時があるのではないか、そんな時に人間関係をとるかそれとも真実をとるか、という問題です。私の個人的な考えでは、詩歌は個人の心を追求して至る他人との共通性あるいは普遍性だと思っています。でも上の歌では「人間関係を越えて」がおこがましですね。次のように改作します。

友達関係とか
師弟関係とか
そういう人間関係から離れ
思いを深め
真実を追求する

74346木の花 2007/10/18 10:10
現実には、尊重と言うよりも聞き流すことが多いかも・・・ まず、自分の思いを確立することが大切なのでしょう。



心地よい響きのする
”自由”に
思う
他人の自由を
尊重せねばと




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No.74347 2007/10/18 13:08 会津 太郎
同感ですね。自分と違う他人の考えや感性をどこまで尊重
できるか、またその違いを尊重しながら、どこまでお互いの共通点や普遍性を追求できるか、その2つが大事かな、と思っています。そして他人や権威の考え方を鵜呑みにするのではなくて、ほんとうに自分自身の頭や心で追求しながら自分自身の思いを確立することが大切かな、と思いました。思いを深めるきっかけを与えてくださり、ありがとうございました。




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No.74352 2007/10/18 20:45 木の花
会津さん、レスありがとうございます。
このところずっと思ってきたことを、歌にして置きました。主に言論の自由を考えて表現したのですが、自由な発言は、時に言葉の暴力ともなりかねません。それ故に、責任ある言葉を使用するよう、十分気を使わなければならないと思います。他人の言葉から学ぶことは多いでしょうが、それだけではなく、自分自身の考えを究めることを忘れてはならない思うのです。




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No.74371 2007/10/19 11:59 会津太郎
そうですね。人間は他人の言葉には傷つきますが、自分の言葉が他人の心を傷つけていることには、なかなか気がつかないんですよね。お互いに気をつけましょう。

74341山田武秋 2007/10/18 09:48
音・17 木偶にもなれませんが・・・



石のように
ただ座すことで
聴こえてくる
いのちの音
いのちの輝き




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No.74351 2007/10/18 13:54 ripple
雑音が多いなか、自然の音に耳を傾けることは
少なくなりましたね。
座禅で聞こえる音はまず呼吸音と拍動音ですね。




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No.74361 2007/10/18 23:48 山田武秋
学生時代、竜安寺石庭を初めて訪れたときに感じたのも同じでした。どうもありがとうございます。

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