平井和正は1960年代に『エイトマン』、70年代に『ウルフガイ』、80年代に『幻魔大戦』をベストセラーにするわけですが、“読者の声の大きさ”に差があるんでしょうかね。幻魔ファンの声が大きい気がするんですね。 それは俺が“信用”している読者であるカナメさんが幻魔大戦のファンだからかもしれない。観測範囲に偏りがある(笑)。俺も幻魔世代なんですが、No.1456で書いた事情もあって、愛好するのはSF短編や死霊狩りで、平井に説法師を視るカナメさんのご意見は新鮮でした。 70年代から80年年代までのベストセラー小説群は楽しめますが、一世を風靡した漫画『エイトマン』を面白いと思ったことはないんですよね。だからか、エイトマン世代の声って俺の耳には入ってこないんですよ。 カナメさんのいう「泉谷あゆみ期」の評判がなかなか耳に入ってこないのは、ベストセラーではないので読んでいる読者の絶対数が少ないという理由以上に、同じことが言えるのかなーと。 『地球樹の女神』や『ボヘミアンガラス・ストリート』は非常に好きな作品で、というか不気味なぐらいのご縁を感じる作品なのですが、じゃあ人に薦めるとき何を選ぶか、というと俺の場合どうしても70年代から80年代までのベストセラー小説群になってしまいますね。 正直、「泉谷あゆみ期」、「後期平井和正作品」を楽しめる人が羨ましいです。『月光魔術團』で“若い男”への態度をみて「ああ、平井さん、男として悪い方向に年取ってんなー」と思い、CENSOREDされCENSOREDされた娘が垂れてくる感覚に(嫌悪ではなく)赤面するあたりで「キモッ、平井和正キモッ」と思ってしまい(笑)、ちょっと耐えられなくなってしまったんですね。加えて往年の人気シリーズに頼ったような創作姿勢も気に食わなかった。俺は『月光魔術團』で完全に見限ってしまいましたね。もったいない。 とはいえ後期平井和正作品、どこかタイミングが合えば、読んでみたいものです。 ほんとうは平井さんが生きているうちにもう一度感想文を送りたかったんですがね。タマフリとしてね。 言霊を引用
無印幻魔ありきで考えていたので、その発想はありませんでした。発表時期では確かに真の久保陽子のほうが早い。考えられる話ですね。https://twitter.com/tkaname/status/830417539033243649(初出 Twitter) 言霊を引用
内容ではなく、No.1448 幻魔大戦ジプシーさんのName欄へのコメントになります。>「平井和正自身は最初にタイムリープという言葉を使ったのは自分だとエッセイで書いていた」というのは、以前2ちゃんねるで私も見た覚えがあります。私自身そういうようなことを平井和正の後書きで読んだような記憶もありました。実際、筒井康隆の「時をかける少女」には、芳山和子の身に起こったことを説明する時に「タイムリープ」という言葉は出てきます。復刊ドットコムで復刊された石山透の「タイム・トラベラー」(NHKで放送された「タイム・トラベラー」と「続・タイムトラベラー」の脚本の単行本化)でも、話す人物は異なるものの、同じ目的で「タイム・リープ」という言葉が出ててきます。「タイムリープ」は筒井康隆のほうが早く使っていたというのが正しいと私も思います。では、平井和正はどこで「最初にタイムリープという言葉を使ったのは自分だ」と書いたのでしょうか。こちらのほうは、私は見つけておりません。私が見つけたのはSubjectに書いた「タイム・リーパー」のほうだけです。リム出版刊 平井和正全集 37 「新幻魔大戦」の「全集巻末企画 平井和正『幻魔』を語る PART1 『人間の現実主義では想像もつかない大きな力』」において、「新幻魔大戦」の経緯を説明する中で、以下のように述べています。「"タイム・リーパー"というのは、そのとき僕が作った新造語なんですけどね。それまでは、普通は"タイム・トラベラー"ですよ。でもタイム・トラベラーというと、何か目的を持って過去に戻るというイメージがでないので、タイム・リーパーという新造語を作った。それがいつのまにかあちこちで使われはじめて、今では何かSF的なテクニカルタームみたいになっています。」私の記憶にあったのは、こちらの「タイム・リーパー」のほうでした。ただ、これはインタビューであり、エッセイではないので、これ以外にエッセイに書かれたかもしれません。幻魔大戦ジプシーさんが疑問をもたれたエッセイはどこに書かれたものなのでしょうか? 言霊を引用 Re: 平井和正はインタビューで「"タイム・リーパー2は僕が作った新造語」と言った - Name: 長年の疑問が解けてスッキリした幻魔大戦ジプシー No.1452 - 2017/02/11(Sat) 21:30:09 kominamiさん、ご教示ありがとうございます。リム出版の本で読んで、「ふーん、そうなんだ」と思ったのは覚えています。おっしゃっている箇所に間違いないと思います。私の記憶が曖昧で申し訳ありませんでした。平井和正が強調したかったのはタイム・リー"パー"なのですね。ただ、改めて、意味が分かると、素人考えからなのですが、erつける程度って、そんな言葉にするほど大した話でもない気がしてしまいました。
kominamiさん、ご教示ありがとうございます。リム出版の本で読んで、「ふーん、そうなんだ」と思ったのは覚えています。おっしゃっている箇所に間違いないと思います。私の記憶が曖昧で申し訳ありませんでした。平井和正が強調したかったのはタイム・リー"パー"なのですね。ただ、改めて、意味が分かると、素人考えからなのですが、erつける程度って、そんな言葉にするほど大した話でもない気がしてしまいました。
調子に乗って、さらに『新幻魔大戦』について考えてみようと思います。前にも云いましたが、「新――」と銘打っておいて時代劇! この発想が尋常じゃない。誰だって続編だと思うし、それを期待するはずです。気になりますよ。「月が‥‥!!」のそのあとがどうなるのか。だけど、描かれたのは、まったくの別世界。その別世界が滅んで、過去に時間跳躍して歴史をやり直す。そしてしばらく読み進めて気付くのです。これは漫画『幻魔大戦』の続編じゃない、「エピソード1」なのだと。お時が歴史を書き換えた、その結実が、漫画『幻魔大戦』の世界なのだと!でもでもでも。いや、ちょっと待ってください。漫画『幻魔大戦』=「エピソード2」の世界って、結局滅びちゃうわけですよね? 髑髏の影を宿し近づく月になすすべもなく。アンハッピーな結末が、完結する前から決まっている物語。なんだか、すごくむなしくないですか? でも、のちに空前のブームを巻き起こす第二次幻魔大戦の作品群が未来に待っていることを知らない、当時のオンタイムの読者にとっては、まさにそうだったはずなのです。ここで少し横道に逸れますが、オンタイムの読者といえば、ワタシのような(アニメ幻魔から入った)後追いの読者には、ちょっと彼らが羨ましいと思えることがあります。お時が旅立つとき、ベアトリスは彼女にことづけます。「わたしのおかあさま プリンセス・ルーナにもよろしく」――と。この伝言は『真幻魔大戦』で、ムーンライト(=お時)からリア王女に降霊したルナへと伝えられます。「わたくしはそれをあなたさまにお伝えするために、長い長い時を待たねばなりませんでした」。「新」から「真」を続けて読んだワタシのような読者には想像するしかありませんが、オンタイムで読んでいた読者には、感慨深かったでしょうね。もう、たまらんかったでしょう。あの平井和正が尾田栄一郎ばりに数年越しの伏線を張って、それを見事回収したのですよ!話を戻します。そもそも、過去へ跳ぶことで滅亡する世界から逃れ、同時に超能力者の種子を蒔く。そのアイデアだけなら、漫画幻魔のストレートな続きでもできたはずなのです。クライマックスで集ったエスパー戦団のもとに、お蝶がやって来ればいい。キメラで合体するわけにはいかないでしょうが、サンボ(ソニー)のように、身体に触れていれば一緒に跳べるということにすればいい。過去の世界へと跳んだ東丈たちの新たなる冒険と戦い……充分ありでしょう。漫画『幻魔大戦』の続きを望んだ読者からすれば、求めていたのはまさにこういう物語であったはずです。しかし、平井和正はそれに肯んじませんでした。思い付かなかったとは、ちょっと考えられません。そういう選択肢をあえて採らなかったのだと、考えるべきでしょう。それは多次元宇宙という概念のもとに展開される、第二次幻魔大戦の作品群を見れば明らかです。作品世界も作者の意図も、まさに一筋縄ではいかなかったのです。「エド一九九九年」という舞台設定が秀逸です。エド・メガロポリス――廃藩置県がおこなわれなかったことを思わせるこの都市の名称だけで、この世界が単に(発表当時の)未来であるだけでなく、我々がいるこの世界とは異なる歴史をたどった別世界の日本だということがわかります。すなわち、パラレルワールドです。幻魔は圧倒的に強く、勝ち目はあまりにも乏しい。それでも、世界は数多に存在しており、何度でもやり直し、何度でもリベンジする機会が与えられる。その設定をこの時点で提示しているのです!つまり平井和正は、「エピソード2」で終わるわけじゃないよ、「エピソード3」「エピソード4」だっていずれやるよ、そのための今は時代劇なんだよ、という青写真を『新幻魔大戦』を始める段階で構想していたと思われるのです。恐るべし、というべきでしょう。この壮大にして稀代の発想力。和正、おそろしい子! 天才なんて安っぽい言葉では語れない、ストーリーテリングの巨人ですよ。ただ、この巨人は、スケールがデカ過ぎて、あまり小さいことは気にしないんですよね(苦笑)。石森章太郎と組んだ劇画小説『新幻魔大戦』が「SFマガジン」に連載されたのが1971年〜74年。その後、79年に無印『幻魔大戦』と『真幻魔大戦』が始まります。こうしてあらためて時系列すると、そのブランクの短さに驚きます。『新幻魔大戦』の連載期間とたいして変わらないんですね。このさほど長くない期間に『悪霊の女王』執筆に苦しみ、高橋信次著「悪霊」に感銘を受け、その後継者・高橋佳子との知遇を得、彼女の教団に関与します。そして、『人狼白書』でアダルトウルフガイがぐれんっと変化を遂げる。同様の変化は、第二次幻魔大戦の作品世界にも及んでいました。御存じ「幻魔と戦うには超能力しかない」から「心を光で満たせば幻魔は怖くない」への質的大転換です。普通、ここまで根本の概念が変わってしまったら、完全新作、別の作品にしますよ。平井和正がそんなノーマルな作家であったなら、ワタシたち読者がかように悩み、嘆くこともなかったでしょう。でも、そんな作家に幻魔大戦は書けなかったし、ワタシもこれほどに魅了され、夢中になり、こんな一文を書くこともきっとなかったのです。 言霊を引用 Re: 考察『新幻魔大戦』 ≪リライト版≫ - Name: カナメ No.1451 - 2017/02/11(Sat) 13:37:37 これはNo.1447「考察『新幻魔大戦』」を書き直したものです。云いたいことは過不足なく盛り込んだ。けど、なんか物足りない、満足できない。まだまだ練り直す余地がある。そう思って練り直したら、元のセンテンスをそのまま使った部分はほとんどない、全面改装、フルモデルチェンジな文章になってしまいました。いかがでしょうか。せっかくですので、読み比べてみてください。
これはNo.1447「考察『新幻魔大戦』」を書き直したものです。云いたいことは過不足なく盛り込んだ。けど、なんか物足りない、満足できない。まだまだ練り直す余地がある。そう思って練り直したら、元のセンテンスをそのまま使った部分はほとんどない、全面改装、フルモデルチェンジな文章になってしまいました。いかがでしょうか。せっかくですので、読み比べてみてください。
この前告白した通り私は新幻魔大戦が大好きです。幻魔大戦のことを「なんか大げさな角川映画アニメ」くらいにしか思っていなかった私に、小説としての平井和正の醍醐味を教えてくれたのがこの作品でした。先週から今週はたまたま電車の中でKindleの野生時代版3巻の最初の戦闘を読んでいましたが、やっぱあそこは何度読んでも面白いっす。しびれます。カナメさん。隙の無いご考察を拝読させて頂きありがとうございます。私はつい重箱の隅をつついて、「日本に幻魔が来寇して原発を攻撃したらあんなものではすまない」とか「御庭番は8代将軍吉宗の時に創設されたからあの時代には存在しない」とか「SFマガジン連載第一回に関して石森章太郎はお時とお蝶と香川千波の関係を正しく理解できていおらず、明暦の大火に登場するお時と覚醒したお時の顔が香川千波の顔で、香川千波の抜け殻が髷を結ったお蝶の焼死体のように描かれている」とか興ざめするようなことをいつも思ってしまいますが、カナメさんはポイントを押さえて的確に新幻魔大戦の本質を評論されていて、すばらしいと存じます。少年ジャンプの団体戦の祖は山田風太郎の甲賀忍法帖だと言われますが、新幻魔大戦のリプレイっぽさは、後に幾つかの作品に影響を与えていると思います。・高橋留美子の炎トリッパー・まどかマギカ・仮面ライダー電王・仮面ライダーディケイド・仮面ライダー鎧武私は少なくともこの5作品は新幻魔大戦のパクリだと思っています。ちなみに仮面ライダーカブトは死霊狩りのパクリだと思っています。ちょっと真面目な話をすると、幾つかの作品のあとがきを読むと、平井和正は新幻魔大戦の続編を構想していて、ネタも少し明かしています。でも、正直、私は実際にそれを二次創作で再現されても最早面白く感じません(読みたいけど)。スターウォーズのプリクエル・トリロジーって、結局、こうなるんだろってみんな観に行っていました。物語を消費する側としてそういう姿勢って良くないし、物語を提供する側もどこか自己満足が強くなっている気がします。私が次に読んでみたいのは、幻魔大戦Rebirthでムーンライトがステラが対峙したとき、どんなやり取りがなされるかです。あと気になるのは、タマネギの皮宇宙とかいう概念を取り入れてもお時(香川千波)は元の自分の次元に帰ることはできないのでしょうか。ベアトリスと再会することはできないのでしょうか。故郷に帰ることは永遠にできないが、お時はベアトリスの使命を果たすべく、同じ時間の中を繰り返して戦い続けるのでしょうか。彼女の戦いが仮に終わったとして、その先には何があるのでしょうか。これこそ、平井和正が描き切れなかった命題であり、幻魔大戦シリーズの隠れた哀愁であると私は思います。 言霊を引用
調子に乗って、さらに『新幻魔大戦』について考えてみようと思います。「新――」とネーミングはされていますが、この作品は幻魔シリーズの「エピソード1」に当たります。元祖である漫画『幻魔大戦』は云わば「エピソード2」。問題は、そのエピソード2で、敗北を喫しているということです。新幻魔でのお時らの営為によって生まれた世界が漫画幻魔なのですが、その世界もまた幻魔によって滅ぼされてしまう。新幻魔はむなしい前日譚でしかないのでしょうか? むろん、そうではありません。「エド一九九九年」という舞台設定が秀逸です。エド・メガロポリス――廃藩置県がおこなわれなかったことを思わせるこの都市の名称だけで、この世界が単に(発表当時の)未来であるだけでなく、我々がいるこの世界とは異なる歴史をたどった別世界の日本だということがわかります。すなわち、パラレルワールドです。そのことを最初に提示しているのです。過去へ跳ぶことで滅亡する世界から逃れ、同時に超能力者の種子を蒔く。そのアイデアだけなら、漫画幻魔のストレートな続きでやってもよかったはずです。クライマックスで集ったエスパー戦団のもとに、お蝶がやって来ればいい。キメラで合体するわけにはいかないでしょうが、サンボ(ソニー)のように、身体に触れていれば一緒に跳べるということにすればいい。平井和正がそれを思いつかなかったはずはありません。過去からやり直すというアイデアはあったのですから。その選択肢はあえて採らなかった、と考えるべきでしょう。幻魔大戦という作品世界を一本の道筋だけで描くということをです。幻魔は圧倒的に強く、勝ち目はあまりにも乏しい。それでも、世界は数多に存在しており、何度でもやり直し、何度でもリベンジする機会が与えられる。その設定をこの時点で示したのです!つまり平井和正は、漫画幻魔のやり直しの平行世界――のちの無印幻魔や真幻魔――の物語、その青写真をこの時点で構想していたと思われるのです。恐るべし、というべきでしょう。この壮大にして稀代の発想力は、まさに天才といって云い過ぎではありませんでしょう。しかし、得てして天才というものは、もう一方で凡人には考えられない欠点をコインの裏表に持ち合わせていたりするものです。石森章太郎と組んだ劇画小説『新幻魔大戦』が「SFマガジン」に連載されたのが1971年〜74年。その後、79年に無印『幻魔大戦』と『真幻魔大戦』が始まりますが、この間に平井和正は「宗教」を経験します。このことが作品世界に大きな変化を及ぼすことになります。御存じ「幻魔と戦うには超能力しかない」から「心を光で満たせば幻魔は怖くない」への質的大転換です。こういうことを平然とやってしまうところが、平井和正という作家の堪らなく面白いところでもあり、困ったところでもあるのですよね。 言霊を引用
先日ツイッターに投じたつぶやきをリツイート(再掲載)。ちょこっと加筆しました。平井和正が読者泣かせなのは、他人が模作で書いたら到底赦されないレベルの自己破壊を続編執筆で繰り返してきたことだろう。赤の他人がウルフガイの続編を書きましたといって、それが『黄金の少女』だったら、「ふざけるな」である。いわゆる神がかりと呼ばれる以前から、その傾向はあった。「新しい幻魔大戦」と称して、山本周五郎ばりの時代小説を書く。その発想がブッ飛んでいる。平井和正の何がSFだといって、あの人の頭の中が一番SFだと思う。宗教団体の小説を書くのはいい。けど、それをなぜコミック幻魔大戦から出発して書かねばならなかったのか? 元朝鮮帰還兵キンケイドの物語は、ウルフガイの一部として語らねばならなかったのか? その理由はおそらく平井和正という作家のその作家性の根幹に関わる部分なのだろう。 言霊を引用
長くなりますので、ぶら下がりませんが、No.1443 幻魔大戦ジプシーさんのコメントへの返信です。にわかファン、大歓迎です。誰でも最初はにわかなんですから。20年以上も前に読み始めて、にわかもなかろうとは思いますが。ブランクがあったということなんでしょうけど、それはまあ人生いろいろということで。何を隠そうこのワタシも、アニメ幻魔きっかけで入ったことに、いまだに引け目みたいなものはあります。平井和正がファンレターの返事を書きまくっていた時代に間に合わなかった新入り感というか、すみませんわたしヘビーローテーションからAKBのファンになりましたみたいな、気持ち的にはですね。そもそもが生まれた時代が違い、読み始めた歳が違い、読んだ時期や順序も、思い入れの方向性も、その熱量も、それぞれがまるで違うのがワタシたち「同じ読者」です。どんなベストセラーであれ、読書は孤独な趣味です。同じ作家、同じ作品を読んでいても、何を見、何を感じているかは、それぞれ違う。驚くほどに違う。だから、物凄く好きな者同士が集まると、得てしてケンカになりがちです。お前のその好きになり方はおかしい、と(笑)。ワタシなんかが云うと、どの口が云ってるんだとクレームが入りそうですが、過去にやらかしたことへの反省を踏まえて申し上げております。ワタシにとり小説幻魔大戦は「宗教サークル小説」です。1〜3巻はむしろジャマ。読み返すときも、たいてい4巻から読み始める。ワタシはこんな風に考えるんですよ。自分が青林高校の一生徒だったとして、あるいは「幻魔の標的」を読んだ一読者だとして、それでも東丈を信じられるだろうか、と。幻魔とやらの脅威を訴えているけれども、そんなものが本当に存在するのか? なんか物凄いPKの持ち主らしいが、うまいこと云って決してそれを人前で披露し、証明することはしない。あまつさえは行方知れずになってしまう。無責任にも程がある。そんな東丈をそれでもあなたは信じ、ついてゆくことができますか?(余談ですが、それが現実に展開したのが、リアル犬神明事件であり、メガビタミンだと思ってます。まったく面白い方ですよ。ヒライストを三日やったらやめられまへん)幻魔の実在も、東丈が超絶能力者であることも、読者は神の目線で知っています。それは1〜3巻があるからです。そのために必要とも云えますが、あれが無くて物語自体が完全にGENKEN会員目線だったら、また別の味わいがあるよな、と思います。というか、自分で勝手に別の味わいを味わってます。ところで、泉谷あゆみ期の平井和正作品は、意図的に読者から神の目線を奪っている節があります。それが物語上の事実なのか、それともジョナサン・ルチアや雛崎みちるがそう思っているに過ぎないのか、そこのところが曖昧なんですね。「中国の危機」とか云ってるけど、それって何の確証もないよね? とこちらは思っているのに、登場人物は自分の思い込みでどんどん行動していき、物語もまるでそれが既成事実であるかのように展開していく。そういうのが前段でああ云っといてなんですが、居心地が悪いというか、正直しんどかったですね。それらグランドライン後半(No.1436参照)の平井和正作品群の取っつきにくさ、掴みどころの無さ加減に比べれば、小説幻魔大戦なんてキャラ萌え要素たっぷりの普通のエンターテインメントですよ。当時としては異常な長尺と4巻以降のシフトの異様さが、カルト小説っぽく認識させているだけで。GENKENストーリーを十代の美少女を集めて、実写ドラマ化してほしいと思います。そのためのアイドルユニットを結成してみるのも面白い、標題のような。そんな妄想も脳内に膨らみます。『ハルマゲドン』の続きが読みたい。読み返し、そして読み終えるたびにそう思います。性質を同じくする「続き」です。『幻魔大戦deep』〜『トルテック』は、あれは続きではありません。漫画『幻魔大戦』〜『新幻魔大戦』の第一次幻魔大戦と80年代の第二次幻魔大戦が話を継いだ別作品であったように、21世紀の第三次幻魔大戦もまた、性質を異にする別の作品でした。なにしろ生まれ変わり続ける作家ですからね。仮にいまも元気でバリバリ執筆を続けていたとしても、こればかりは望むべくもなかったでしょうけど。その点、『幻魔大戦Rebirth』は漫画『幻魔大戦』のまっとうな「続き」、少なくともそれを志して創られた作品であると思います。天才・平井和正の作品を秀才・七月鏡一が受け継ぐ。GENKENもトルテックも、あらゆる要素を盛り込みつつも、過度にそれら傾くことなく、かつてのSF活劇のテイストそのままに「ベガのいる幻魔大戦」を描く。近頃はたまに小ネタなどもつぶやいていますが、ワタシはこの作品、わりと愉しみにしております。幻魔大戦ジプシーさんの読者としての道のり、面白く読ませていただきました。ツイッターでの発言も拝見していますが、流行りの時期に普通の読書家が云ってたような批判をなぜいまさらと、正直奇異に思っていました。ですが、こうしてジプシーさんご自身の事情や背景を伺い、成る程と思えた気がします。幻魔大戦ジプシーさんとワタシとでは、幻魔大戦という作品に対する軸足の置き所が違う。だから、主張するところもまるで違うということになるのですが、その違いを「こういう読者もいるのか」と面白がってもらえたら嬉しいです。 言霊を引用 Re: 道玄坂46 - Name: 何かと腹に落ちた幻魔大戦ジプシー No.1445 - 2017/02/05(Sun) 23:57:43 返信ありがとうございます。>漫画『幻魔大戦』〜『新幻魔大戦』の第一次幻魔大戦と80年代の第二次幻魔大戦が話を継いだ別作品であったように、21世紀の第三次幻魔大戦もまた、性質を異にする別の作品でした。なんか長らく疑問だったことの答えが見つかりました。80年代の幻魔大戦と21世紀の作品は、繋がっているというより、接ぎ木で出来た別物なんですね。私、リアルタイムに読んでないし、パソ通も全然やったことがないのですが、そういう風に考えると、ああ、そういうことかと思います。石ノ森章太郎のサイボーグ009も地下帝国ヨミで私の中で終わっていて、その後の作品は接ぎ木だというのは何となく理解しながら読んではいました(仮面ライダーも似たような感じです)。とても勉強になりました。私の通った古本屋の親父の言葉ですが、「物語は所詮作り話だから答えは出せない。問題を提起することが物語の役割である」というのをなんか思い出しました。>幻魔大戦ジプシーさんとワタシとでは、幻魔大戦という作品に対する軸足の置き所が違う。だから、主張するところもまるで違うということになるのですが、その違いを「こういう読者もいるのか」と面白がってもらえたら嬉しいです。私はGガンダムは認めない派なのですが(昔Gガンダムが好きな人とケンカしましたね)、リアルタイムで食いついてしまった人とは、確かによくケンカしてしまいます。変にこうだと思わずに、この時はこういうものなのだと思うことは大事ですね。
返信ありがとうございます。>漫画『幻魔大戦』〜『新幻魔大戦』の第一次幻魔大戦と80年代の第二次幻魔大戦が話を継いだ別作品であったように、21世紀の第三次幻魔大戦もまた、性質を異にする別の作品でした。なんか長らく疑問だったことの答えが見つかりました。80年代の幻魔大戦と21世紀の作品は、繋がっているというより、接ぎ木で出来た別物なんですね。私、リアルタイムに読んでないし、パソ通も全然やったことがないのですが、そういう風に考えると、ああ、そういうことかと思います。石ノ森章太郎のサイボーグ009も地下帝国ヨミで私の中で終わっていて、その後の作品は接ぎ木だというのは何となく理解しながら読んではいました(仮面ライダーも似たような感じです)。とても勉強になりました。私の通った古本屋の親父の言葉ですが、「物語は所詮作り話だから答えは出せない。問題を提起することが物語の役割である」というのをなんか思い出しました。>幻魔大戦ジプシーさんとワタシとでは、幻魔大戦という作品に対する軸足の置き所が違う。だから、主張するところもまるで違うということになるのですが、その違いを「こういう読者もいるのか」と面白がってもらえたら嬉しいです。私はGガンダムは認めない派なのですが(昔Gガンダムが好きな人とケンカしましたね)、リアルタイムで食いついてしまった人とは、確かによくケンカしてしまいます。変にこうだと思わずに、この時はこういうものなのだと思うことは大事ですね。
http://boutreview.shop-pro.jp/?pid=111375197寒風吹き荒ぶ1月15日、こちらのトークライブにお邪魔してきました。ミステリ・SF評論家の日下三蔵氏とご存じ七月鏡一氏が、フリートークでデビューから'80s幻魔大戦までを語る濃密な約2時間。どこにも公表されていない貴重なお話しも聞けて、楽しかったです。東京国際アニメフェア2006で上映された『8マンインフィニティ』のアニメ版パイロットフィルムも鑑賞させていただきました。超高速戦闘の描写がいまの水準で視てもクールでカッコ良くって、ボツったのが惜しまれます。ついでにワタシのキーボードからは明かしませんが、1stを誰にするつもりだったのかは、いつか公表してください、七月先生。来場者数はちょっとびっくりするほど少なくって、できたら皆さんとご挨拶してお話ししてみたったですね。懇親会にはほとんど参加せずに帰っちゃうし。それぞれに濃ゆい人達なんだろうなと思います。日下さんも七月さんも年齢はワタシとほぼ同じで、読者としての道筋は通じるところが多かったですね。なにより七月さんも『黄金の少女』贔屓だと知って、大いに親近感を持ちました。前にも書いたと思うんですが、当のファンクラブである(新)ウルフ会でオンタイム連載中の最新作を語れなかったというのは、けっこうワタシのなかでトラウマなんですよ。あの作品はウルフガイの続編として見ると、それこそ犬神明出る出るサギなんですけど、『サイボーグブルース』における『暗闇への間奏曲』的位置付けのインタルード、その大がかりな単体の作品として見れば、朝鮮戦争帰りの空虚な警察署長がセイタンズとの戦闘を通じて自らを回復する、シビれる大傑作なんですけどね。「Part.1」と銘打っているように、'80s幻魔大戦以降を語る「Part.2」※も開催されます。すっごい楽しみで、ぜひ参加したいと思います。ワタシが勝手に「泉谷あゆみ期」と呼んでいる、グランドライン後半の平井作品(まさにワンピースの新世界のように、数多の読者がこの海で脱落してゆくという)が、まともに識者によって評論されたことがなかったので。それが歯がゆく、口惜しい。ワタシなんかは、平井和正ひとりを偏愛して、そればっかり読んで、そればっかり語ってきた、ただのファンなんで、それじゃあダメなんですよ。SF全般、サブカルチャー全般に精通し、なおかつ平井和正に理解と愛情がある。そんなちゃんとした識者に、『地球樹の女神』以降の平井和正の後半生を語ってほしい。平井和正がSF界、小説界にあって、いかに特異であるか。そして、いかに普遍的であるかを。※Live Wire 17.2.12(日) 日下三蔵の昭和SF&ミステリ秘宝館 平井和正編 Part.2 http://boutreview.shop-pro.jp/?pid=112204602(初出 Facebook 掲載にあたり改稿しました) 言霊を引用 Re: 日下三蔵の昭和SF&ミステリ秘宝館 平井和正編 Part.1 - Name: 幻魔大戦Rebirth 新章のために徳間文庫の真幻魔大戦14〜18の第三部を復習した幻魔大戦ジプシー No.1438 - 2017/01/26(Thu) 09:00:17 >東京国際アニメフェア2006で上映された『8マンインフィニティ』のアニメ版パイロットフィルムも鑑賞させていただきました。一瞬、新作か?と思いつつもシャドウの声がお亡くなりになった内海賢二さんだったので、お蔵入りした映像なんだなというのはすぐわかりました。SF作家デビューエイトマンでのアニメシナリオライターとしての経済的な成功早川書房 福島正実との確執立風書房 改ざん事件とおよびその後の大手出版社から作家として干されたこと森優とウマが合い早川書房での活躍漫画原作者にも戻り少年犬神明ヤングウルフガイを見出しSF小説家としての成功森優退職に伴い、文庫を角川に移して、実は平井和正は早川書房に出入禁止になっていたこと新興宗教団体GLAの傾倒とゴーストライター活動。だが途中で教祖や教団を信じられなくなって人狼天使を完結させられなくなったという裏話。太陽風交点事件で小松左京も早川書房から出入り禁止になり、平井和正も小松左京に同調したため、溝がさらに深くなったことというのがPart1のお話だったようですね。さてPart2ではどんな話が飛び出すやら、私も考えただけで、いろいろと思い浮かびます(角川書店改ざん事件やリム出版や徳間から出た犬神明がいまいち面白くなかったこととか・・・)。偲ぶ会は開催されなかったようですが、身近で見てきた人たちの証言を伺いに行きたいと思います。 Re: 日下三蔵の昭和SF&ミステリ秘宝館 平井和正編 Part.1 - Name: カナメ No.1439 - 2017/01/27(Fri) 02:32:47 幻魔大戦ジプシーさんもいらしてたんですね。Part.2では、よろしかったらで声でもかけてください。Part.1と同じ、皮ジャンの小太りメガネがワタシの風体です。 私の平井和正の思い出 - Name: 1990年代の思春期に平井和正に興味を持ってしまった幻魔大戦ジプシー No.1443 - 2017/02/05(Sun) 00:53:31 平井和正という単語は何となく知っていた。TBS系列でやっていたテレビ探偵団などの一昔前の番組を懐かしむ番組でエイトマンが出てくると桑田次郎と一緒にクレジットされているからだ。ただ、ウルフガイとか幻魔大戦は知らなかった。小学生か幼稚園の頃に日曜日夜7時のフジテレビでさすがの猿飛というアニメがやっていて、それでなんかげんまん大戦というパロディみたいな番外編の回があって、私は何のパロディなのかを理解していなかった。初めて幻魔大戦を知ったのは、私が中学2年か3年の正月の午前中に地元の地方局で角川映画の幻魔大戦が放送された。私は石ノ森章太郎のファンだったこともあり、新聞のラテ蘭の石ノ森章太郎原作のクレジットをみてみてみた。正直、違和感の連続。絵がアキラの大友克洋、最後はカフーというのと戦っていたのに、なんかラストボスの幻魔大王をやっつけたどうのこうのと言っている。意味が分からなかった。勝てるはずがないだろう。と率直に思った。そこから半年ほど過ぎた梅雨の時期に、地元の駅前の古本屋で秋田書店サンデーコミックの幻魔大戦1巻を発見。おこずかいで購入し、読んでみたら、あまり違和感がなかった。絵がちゃんと石森章太郎だ。なんか面白いので、続きが気になった。でも、確か、梅田の阪急ファイブの5階の漫画専門店にも行ってみたけどみつからなかったか、当時、こずかいがなくて買えなかったかのどちらかだと思う。通っていた進学塾の別支店のT駅前教室に諸事情でたまたま行くことになり、塾の下の本屋に立ち寄ってみると、角川文庫の幻魔大戦 作者平井平井和正 16巻〜20巻が置いてあり、ちょっと違うところに石森章太郎の幻魔大戦(リュウ版と後に知る)が置いてあるのを見つけた。私はその時、勘違いした。インターネットも普及していない、Wikipediaもない時期である。「サンデーコミックスの幻魔大戦には実は20巻もある原作小説があって、それを書いたのはエイトマンの平井和正なんだ!。でももう一個の戦闘服を着て髪を逆立てている戦士の絵の石森章太郎の幻魔大戦は平井和正とクレジットされていないけど、なんなんだろう。」今から考えると、考えることが子供だなと思う。20巻もある大河小説をコミカライズしたのであれば、サンデーコミックス版の前書きとかに「大人気大河SF小説のコミカライズ化!」という御触れがかいてあるはずである。ただ、なんか違和感は感じてはいた。私は高校に上がり、高校1年生の春の遠足で京都に行き、そのついでに寄った本屋でたまたまサンデーコミック幻魔大戦の第二巻を発見し、購入。ラストは月が落ちてきたところで終わる訳だが。私は、そのとき、多少腑に落ちた。「やっぱ勝てるわけないよな。」そして「平井和正の原作小説でも最終巻でそんな悲惨な終わり方しているのかな?」なんとなーく疑問に感じた程度だった。高校2年生の10月か11月ごろに駅前の古本屋で徳間アニメージュコミックの新幻魔大戦の2巻を見つけ、500円程度で購入したと思う。よんでみてびっくりした。時代劇である。ところどころに、ベアトリスの釵、東丈、ルーナ、香川千波が20世紀にひどい目にあってどうのこうのみたいなことが書いてある。「月が落ち着た後の話かな?集結したエスパー戦団の一員に香川千波というのがいて、お蝶というその時代に流れ着いたタイムリーパーに憑りついて、江戸時代にやってきたのかな?」と思った。幻魔正雪との戦いの結末も気になった。たまたま気晴らしに地元の図書館を歩いていると、リム出版の平井和正全集が入っていた。本棚に新幻魔大戦が置いてあって、さっそく借りて読んだ。小説の最初から最後(2巻相当はかなり読み飛ばしたが)を読んで、合点が多少行った。月が落ちてきた後の話ではなく、むしろそのずっと前で東丈が存在しない世界から主人公が破滅した地球からタイムリープして、東丈を作り出そうとしている話だということを。つまり、サンデーコミック版では東丈は偶発的に地球に存在した強い超能力者という感じだったが、新幻魔大戦で、東丈は仕組まれた超能力者/ルーナの配偶者という設定が追加されたことを知った。とても興味がわいた。小遣いをはたいて、3年たっても売れ残っている幻魔大戦の17巻と18巻を買った。まあ、3年たっても売れ残っている時点でなんか変だと気付くべきではあった。買ってまたびっくりである。アクションというより、なんか議論をしている。「なんか変だ。なんか変だ。こんなシーンは、サンデーコミックになかったぞ」私はそうとしか思わなかった。そして、隣の市のO屋という古本屋にリュウがおいてあって、絵が石森章太郎の黒い戦闘服を着た戦士の幻魔大戦である。確か、連載第二回だったと思う。平井和正の幻魔大戦と全然関係がないなーと思った。それから、図書館巡りや古本屋巡りや大手書店を回って、入手できるものや図書館で読んでしまえるものは読んでみた。大学に入学するまでには一周したと思う。一番、コストパフォーマンスが低かったというか、高くついたのはアニメージュコミック新幻魔大戦の1巻目かな。どの古本屋を回ってもなかなか見つからない。2巻はちょくちょく見かけたのだが。やっと見つけたのが古書専門店の籠目舎(梅田移転前の吹田にあった頃)。1巻と2巻合わせて3000円から5000円かけて買ったような気がする。しかしながら、振り返って、私のこの趣味は非常に孤独だった。当時はTRFなどの小室ファミリーの人気が出始めていたり、集英社はドラゴンボール・スラムダンク・幽遊白書でビルが建ったなんて噂が流れていた時期である。私のクラスメートは犬神明だとか東丈なんて聞いたこともないという状態だった。もはや若者にとって、平井和正は「昔の作家」というよりも「無名の作家」となってしまっていた。この間に阪神大震災やオウム真理の地下鉄サリンが起きるわけだが、なんか私の頭ではテレビでああでもないこうでもないと議論を吹きかけたり就業に励む胡散臭いオウムが、幻魔大戦のGENKENと被った。一周をしている間に、どうもGLAという宗教団体にハマってなんか痛い目にあったみたいだとか、そして、噂で、3、4年くらい前のエイトマンの実写映画がとても駄目だったと聞いた。ウルフガイの小説も図書館で断片的に読んだり、徳間ノベルの犬神明を立ち読みしたりもした。ただ、犬神明の一巻当たりで、私は何となくラスボスは犬神明の母親じゃないか?と直感的に予想をした。1年後犬神明の最終巻が出てどうも私の予想が当たっていたことを知った。正直、「平井和正はもうアカンな」と呆れてしまった。このころから、完全に平井和正を私は追わなくなっていた。新聞の広告とか書店に行って、月光魔術團とかみても、「胡散臭い、買うのやめとこ」集英社から決定版と銘打たれた野生時代版が出ても、「どこが決定版なんだろう」と思ったりしていた。社会人になり東京に来て、若干ブラック気味なIT企業に就職し、大晦日も正月もないような生活を9年か10年くらい続けた。デスマーチの地獄のようなプロジェクトから解放され、会社が大手のSIerに買収されたという環境の変化もあり、私は2012年の12月に1か月の長期休暇を取った。そして、「そういえば、幻魔大戦は続編が書かれたのかな?」とネットをググったのが良くなかった。私の心の奥底に眠っていた気懸りが目覚めてしまった。もしかしたら体調不良でいけないかもしれないけど、来週の日曜日の新宿5丁目は懇親会も含めて参加しようと思います。私は、にわかファンなので、お手柔らかにお願いします。最後に私がなんとなく同意見だなぁと共感したネットのブログなどのリンクを張っておきます。-----------------------------------------------------------------------------------------------平井和正は青春の作家だ。 社会経験のない頃、頭の中だけで世の中を想像している頃、勉強のプレッシャーとそれに応えられない自分、漠然とした将来への不安、そういう時代に読むと、ものすごい魅力を発する。 社会との敵対、孤高の美学、ヒロイズム、平井作品のキーワードは・・・ 語彙が貧困なのでどう形容していいか分からない。http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/451.htmlまあ、取りあえず平井和正さん素晴らしい感動と失望をありがとうございました。ご冥福をお祈りします。http://si-fikyoto.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-6c89.html「週刊アスキー」でDOS/Vパソコン自作にハマる様子を報告するなどしていたことが妙に印象に残っている。一時期、スタパ齋藤の妙にテンションの高い文体にはまっていたことも言っていた。その後、また幻魔の言霊が来て「幻魔大戦deep」は電子書籍、つづく「幻魔大戦deepトルテック」はCD-ROM出版を手がけた。「幻魔大戦deepトルテック」は書籍版も刊行されたが、3巻で2万1千円という高額で手が出ない。かつて、読者を思い、財布の負担が少ない文庫本刊行に力を入れたいというようなことを書いていた時期もあったことを思い出す。「文庫本の言霊」が憑いていたんだろうか。https://wildwildfancy.blogspot.jp/2014/03/blog-post_10.html感動的なまでに、無責任な終わり方。最高だ。平井先生、あんた最高だよ。全然、ストーリーが完結してないじゃん。最高だよ。この、無茶苦茶で、読者をなめきった終わり方。最高だよ。確かに、『幻魔大戦』も風呂敷を広げるだけ広げといて、無責任に終了だったから、『真幻魔大戦』もそんなかんじだろうなとは予想してたさ。しかし、オレの予想を上回り、さらに中途半端。中途半端という形容詞を強調するのに、どのような言葉が適切かは分からない。超中途半端。絶妙に中途半端。あらゆる角度から見て中途半端。最高だ、平井さん、こんな舐めた小説を書くから、あんた最高だ。全体のストーリーの起承転結はバランスが悪いし、ほのめかした数々の複線はなんの結論も得られないままだし、単調な繰り返しのような話がだらだらと続くことも多いし。だけど、じゃあ、なぜ面白いのか。それは、この平井和正って人がこの作品にこめた熱意。それ以外にありえない。(略)そして、あらためて思った。小説の面白さはストーリーにはない。無茶苦茶なストーリーでもオレは作者をせめたりしない。作者が全身全霊の熱意をそそぎこんで、命をけずり書いた小説ならば、私はそれに敬意を表するほかない。そう改めて感じた貴重な小説だった。http://home.catv.ne.jp/nn/meta/p25.htm
>東京国際アニメフェア2006で上映された『8マンインフィニティ』のアニメ版パイロットフィルムも鑑賞させていただきました。一瞬、新作か?と思いつつもシャドウの声がお亡くなりになった内海賢二さんだったので、お蔵入りした映像なんだなというのはすぐわかりました。SF作家デビューエイトマンでのアニメシナリオライターとしての経済的な成功早川書房 福島正実との確執立風書房 改ざん事件とおよびその後の大手出版社から作家として干されたこと森優とウマが合い早川書房での活躍漫画原作者にも戻り少年犬神明ヤングウルフガイを見出しSF小説家としての成功森優退職に伴い、文庫を角川に移して、実は平井和正は早川書房に出入禁止になっていたこと新興宗教団体GLAの傾倒とゴーストライター活動。だが途中で教祖や教団を信じられなくなって人狼天使を完結させられなくなったという裏話。太陽風交点事件で小松左京も早川書房から出入り禁止になり、平井和正も小松左京に同調したため、溝がさらに深くなったことというのがPart1のお話だったようですね。さてPart2ではどんな話が飛び出すやら、私も考えただけで、いろいろと思い浮かびます(角川書店改ざん事件やリム出版や徳間から出た犬神明がいまいち面白くなかったこととか・・・)。偲ぶ会は開催されなかったようですが、身近で見てきた人たちの証言を伺いに行きたいと思います。
幻魔大戦ジプシーさんもいらしてたんですね。Part.2では、よろしかったらで声でもかけてください。Part.1と同じ、皮ジャンの小太りメガネがワタシの風体です。
平井和正という単語は何となく知っていた。TBS系列でやっていたテレビ探偵団などの一昔前の番組を懐かしむ番組でエイトマンが出てくると桑田次郎と一緒にクレジットされているからだ。ただ、ウルフガイとか幻魔大戦は知らなかった。小学生か幼稚園の頃に日曜日夜7時のフジテレビでさすがの猿飛というアニメがやっていて、それでなんかげんまん大戦というパロディみたいな番外編の回があって、私は何のパロディなのかを理解していなかった。初めて幻魔大戦を知ったのは、私が中学2年か3年の正月の午前中に地元の地方局で角川映画の幻魔大戦が放送された。私は石ノ森章太郎のファンだったこともあり、新聞のラテ蘭の石ノ森章太郎原作のクレジットをみてみてみた。正直、違和感の連続。絵がアキラの大友克洋、最後はカフーというのと戦っていたのに、なんかラストボスの幻魔大王をやっつけたどうのこうのと言っている。意味が分からなかった。勝てるはずがないだろう。と率直に思った。そこから半年ほど過ぎた梅雨の時期に、地元の駅前の古本屋で秋田書店サンデーコミックの幻魔大戦1巻を発見。おこずかいで購入し、読んでみたら、あまり違和感がなかった。絵がちゃんと石森章太郎だ。なんか面白いので、続きが気になった。でも、確か、梅田の阪急ファイブの5階の漫画専門店にも行ってみたけどみつからなかったか、当時、こずかいがなくて買えなかったかのどちらかだと思う。通っていた進学塾の別支店のT駅前教室に諸事情でたまたま行くことになり、塾の下の本屋に立ち寄ってみると、角川文庫の幻魔大戦 作者平井平井和正 16巻〜20巻が置いてあり、ちょっと違うところに石森章太郎の幻魔大戦(リュウ版と後に知る)が置いてあるのを見つけた。私はその時、勘違いした。インターネットも普及していない、Wikipediaもない時期である。「サンデーコミックスの幻魔大戦には実は20巻もある原作小説があって、それを書いたのはエイトマンの平井和正なんだ!。でももう一個の戦闘服を着て髪を逆立てている戦士の絵の石森章太郎の幻魔大戦は平井和正とクレジットされていないけど、なんなんだろう。」今から考えると、考えることが子供だなと思う。20巻もある大河小説をコミカライズしたのであれば、サンデーコミックス版の前書きとかに「大人気大河SF小説のコミカライズ化!」という御触れがかいてあるはずである。ただ、なんか違和感は感じてはいた。私は高校に上がり、高校1年生の春の遠足で京都に行き、そのついでに寄った本屋でたまたまサンデーコミック幻魔大戦の第二巻を発見し、購入。ラストは月が落ちてきたところで終わる訳だが。私は、そのとき、多少腑に落ちた。「やっぱ勝てるわけないよな。」そして「平井和正の原作小説でも最終巻でそんな悲惨な終わり方しているのかな?」なんとなーく疑問に感じた程度だった。高校2年生の10月か11月ごろに駅前の古本屋で徳間アニメージュコミックの新幻魔大戦の2巻を見つけ、500円程度で購入したと思う。よんでみてびっくりした。時代劇である。ところどころに、ベアトリスの釵、東丈、ルーナ、香川千波が20世紀にひどい目にあってどうのこうのみたいなことが書いてある。「月が落ち着た後の話かな?集結したエスパー戦団の一員に香川千波というのがいて、お蝶というその時代に流れ着いたタイムリーパーに憑りついて、江戸時代にやってきたのかな?」と思った。幻魔正雪との戦いの結末も気になった。たまたま気晴らしに地元の図書館を歩いていると、リム出版の平井和正全集が入っていた。本棚に新幻魔大戦が置いてあって、さっそく借りて読んだ。小説の最初から最後(2巻相当はかなり読み飛ばしたが)を読んで、合点が多少行った。月が落ちてきた後の話ではなく、むしろそのずっと前で東丈が存在しない世界から主人公が破滅した地球からタイムリープして、東丈を作り出そうとしている話だということを。つまり、サンデーコミック版では東丈は偶発的に地球に存在した強い超能力者という感じだったが、新幻魔大戦で、東丈は仕組まれた超能力者/ルーナの配偶者という設定が追加されたことを知った。とても興味がわいた。小遣いをはたいて、3年たっても売れ残っている幻魔大戦の17巻と18巻を買った。まあ、3年たっても売れ残っている時点でなんか変だと気付くべきではあった。買ってまたびっくりである。アクションというより、なんか議論をしている。「なんか変だ。なんか変だ。こんなシーンは、サンデーコミックになかったぞ」私はそうとしか思わなかった。そして、隣の市のO屋という古本屋にリュウがおいてあって、絵が石森章太郎の黒い戦闘服を着た戦士の幻魔大戦である。確か、連載第二回だったと思う。平井和正の幻魔大戦と全然関係がないなーと思った。それから、図書館巡りや古本屋巡りや大手書店を回って、入手できるものや図書館で読んでしまえるものは読んでみた。大学に入学するまでには一周したと思う。一番、コストパフォーマンスが低かったというか、高くついたのはアニメージュコミック新幻魔大戦の1巻目かな。どの古本屋を回ってもなかなか見つからない。2巻はちょくちょく見かけたのだが。やっと見つけたのが古書専門店の籠目舎(梅田移転前の吹田にあった頃)。1巻と2巻合わせて3000円から5000円かけて買ったような気がする。しかしながら、振り返って、私のこの趣味は非常に孤独だった。当時はTRFなどの小室ファミリーの人気が出始めていたり、集英社はドラゴンボール・スラムダンク・幽遊白書でビルが建ったなんて噂が流れていた時期である。私のクラスメートは犬神明だとか東丈なんて聞いたこともないという状態だった。もはや若者にとって、平井和正は「昔の作家」というよりも「無名の作家」となってしまっていた。この間に阪神大震災やオウム真理の地下鉄サリンが起きるわけだが、なんか私の頭ではテレビでああでもないこうでもないと議論を吹きかけたり就業に励む胡散臭いオウムが、幻魔大戦のGENKENと被った。一周をしている間に、どうもGLAという宗教団体にハマってなんか痛い目にあったみたいだとか、そして、噂で、3、4年くらい前のエイトマンの実写映画がとても駄目だったと聞いた。ウルフガイの小説も図書館で断片的に読んだり、徳間ノベルの犬神明を立ち読みしたりもした。ただ、犬神明の一巻当たりで、私は何となくラスボスは犬神明の母親じゃないか?と直感的に予想をした。1年後犬神明の最終巻が出てどうも私の予想が当たっていたことを知った。正直、「平井和正はもうアカンな」と呆れてしまった。このころから、完全に平井和正を私は追わなくなっていた。新聞の広告とか書店に行って、月光魔術團とかみても、「胡散臭い、買うのやめとこ」集英社から決定版と銘打たれた野生時代版が出ても、「どこが決定版なんだろう」と思ったりしていた。社会人になり東京に来て、若干ブラック気味なIT企業に就職し、大晦日も正月もないような生活を9年か10年くらい続けた。デスマーチの地獄のようなプロジェクトから解放され、会社が大手のSIerに買収されたという環境の変化もあり、私は2012年の12月に1か月の長期休暇を取った。そして、「そういえば、幻魔大戦は続編が書かれたのかな?」とネットをググったのが良くなかった。私の心の奥底に眠っていた気懸りが目覚めてしまった。もしかしたら体調不良でいけないかもしれないけど、来週の日曜日の新宿5丁目は懇親会も含めて参加しようと思います。私は、にわかファンなので、お手柔らかにお願いします。最後に私がなんとなく同意見だなぁと共感したネットのブログなどのリンクを張っておきます。-----------------------------------------------------------------------------------------------平井和正は青春の作家だ。 社会経験のない頃、頭の中だけで世の中を想像している頃、勉強のプレッシャーとそれに応えられない自分、漠然とした将来への不安、そういう時代に読むと、ものすごい魅力を発する。 社会との敵対、孤高の美学、ヒロイズム、平井作品のキーワードは・・・ 語彙が貧困なのでどう形容していいか分からない。http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/451.htmlまあ、取りあえず平井和正さん素晴らしい感動と失望をありがとうございました。ご冥福をお祈りします。http://si-fikyoto.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-6c89.html「週刊アスキー」でDOS/Vパソコン自作にハマる様子を報告するなどしていたことが妙に印象に残っている。一時期、スタパ齋藤の妙にテンションの高い文体にはまっていたことも言っていた。その後、また幻魔の言霊が来て「幻魔大戦deep」は電子書籍、つづく「幻魔大戦deepトルテック」はCD-ROM出版を手がけた。「幻魔大戦deepトルテック」は書籍版も刊行されたが、3巻で2万1千円という高額で手が出ない。かつて、読者を思い、財布の負担が少ない文庫本刊行に力を入れたいというようなことを書いていた時期もあったことを思い出す。「文庫本の言霊」が憑いていたんだろうか。https://wildwildfancy.blogspot.jp/2014/03/blog-post_10.html感動的なまでに、無責任な終わり方。最高だ。平井先生、あんた最高だよ。全然、ストーリーが完結してないじゃん。最高だよ。この、無茶苦茶で、読者をなめきった終わり方。最高だよ。確かに、『幻魔大戦』も風呂敷を広げるだけ広げといて、無責任に終了だったから、『真幻魔大戦』もそんなかんじだろうなとは予想してたさ。しかし、オレの予想を上回り、さらに中途半端。中途半端という形容詞を強調するのに、どのような言葉が適切かは分からない。超中途半端。絶妙に中途半端。あらゆる角度から見て中途半端。最高だ、平井さん、こんな舐めた小説を書くから、あんた最高だ。全体のストーリーの起承転結はバランスが悪いし、ほのめかした数々の複線はなんの結論も得られないままだし、単調な繰り返しのような話がだらだらと続くことも多いし。だけど、じゃあ、なぜ面白いのか。それは、この平井和正って人がこの作品にこめた熱意。それ以外にありえない。(略)そして、あらためて思った。小説の面白さはストーリーにはない。無茶苦茶なストーリーでもオレは作者をせめたりしない。作者が全身全霊の熱意をそそぎこんで、命をけずり書いた小説ならば、私はそれに敬意を表するほかない。そう改めて感じた貴重な小説だった。http://home.catv.ne.jp/nn/meta/p25.htm
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