あるサイトで、トヨエツ版「わるいやつら」についての興味深い記述を見つけました。私は 原作を未読ですので 真偽の程は判りませんが、取り敢えず 引用させて頂きます。尚、引用がまずかったら、削除願います。 - - - - - 没後10年記念(亡くなったの記念するって失礼!)が制作されてる松本清張作品について。昨日、昼下がりに『わるいやつら』(トヨエツ主演版)を観ておりました。そして…ラスト30分「あ、原作と違う」ということに気づきました。ミステリーのネタばれになるのでどういうラストになるのかは避けますが、要点だけ申しますと「実行犯が違った」ということです。 清張氏、執筆の際に最も気を使った点は?といいますと、「犯罪の動機」だったとのこと。これは最高傑作『砂の器』『ゼロの焦点』『波の塔』などの一連の作品をお読みの方でしたらおわかりになると思います。 私、この『わるいやつら』に関しましては、原作を素読みしてまして、ラストの数行のどんでん返しに非常な「余韻」を感じておりました。また同作品の映像化されたものに関しては、映画版(片岡孝夫・今の仁左衛門)と火サス版(古谷一行)を視聴経験があるのですが、細かい設定に違いはあれど、大まかなラストはほぼ原作通りでした。 トヨエツ版、ラストのどんでん返しを変更させたことは、現代サスペンスにおける「スリル」を重視したのかもしれませんが、実行犯を変えたということは、清張氏の最も重視した「動機」部分での変更にも繋がる問題である、と思いまして。 しかも、清張作品に『太陽がいっぱい』(アラン・ドロン)の着想まで持ち込んだトンデモぶりでして。 トヨエツに関しては、後半から中々いい芝居をしていたとは思うんですが、彼が入れ込む隆子役の万田久子がどう見ても年増でして(失礼!・笑)彼が他の女から金を引き出し、隆子に貢いだ背景には、隆子の美貌の他に「若さ」というものも重要な要素でしたから、この配役にもちょっと疑問がありました。トヨエツに吊りあう年下女優で、魔性の女がいなかったかもしれんが(笑)。 で、話は「動機」重要に戻りますが、清張氏は生前、霧プロというのを組織しておりまして、自身の原作を映像化する際は必ずそこを通して脚本や配役をチェックしていたハズなんです。霧プロは現在、解散されておりますが、原作者がそこまで神経を使っていた作品なのに、「死人に口なし」「清張原作だと数字が取れる」という理由で安易に映像化されてしまうことは、清張作品ファンの私としては「う〜む」であります。 霧プロで厳しく清張作品の映像化を管理していた林悦子氏の著書「松本清張 映像の世界」(2001年、ワイズ出版刊)が詳しいです。同書によれば、霧プロ当時は劇場映画出身の演出家にしか映像化を許さない、4月・10月の改編期にオンエアさせない、などなど厳しい制限を設けていたようです。清張の存命中も特定の広告代理店の意を受けた親族が介入し例外的な取り扱いの映像化もあったそうですが、清張の死後、親族に映像化の権利が引き継がれて以降、霧プロが解散し、林悦子氏は追い出され、映像化の制限についてもかなり緩んだようです。もっともそのおかげでビデオ系の演出家による清張作品の映像化も容易になったわけなので是非はわかりません。一方の側からの記述なので割り引かねばならないのかも知れませんが参考にはなる記述です。 - - - - - 以上です。 「わるいやつら」観賞後の 私の「?」が判ったような気がしました。筋運び等全てに 全然納得できなかったんですよね。 |
No.186 - 2003/03/23(Sun) 00:03:45 [p1005-ipbf10sasajima.aichi.ocn.ne.jp]
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