もう劇場で見えないのかと思うと、またひとつ蘇るシーンに書きたくなってしまいました。 それは、-----魔法の手----- 純愛映画といえば私の中では昭和なら、愛と死をみつめて・ある愛の詩でしょうか。平成の代表はきっと愛の流刑地になるでしょう。 女性が愛する男性に看取られて死に逝くことはこの世の最後の幸せなのでしょうね、きっと。 純愛には『手を握る』このシーンが似合います。菊治と冬香もよく手を握っています。 一緒に歩いているときも、食事をしているときも、電車の中でも車の中でも、ベッドでも、その時々の愛の頂点を二人が感じあっている。手を握るときって、きっと心のエクスタシーを感じあっているのでしょう。 『心と体であなたを想う』と菊治がメールで伝えたことが、そのまんま映像になっていたように感じます。 世の中便利になって携帯電話やメールで伝わることが多いけれど、素直に言葉や態度で相手に伝えることって大切ですね、年齢に関係なく。
上賀茂神社の木の下で手を差し出してから、京都のホテルで『こういう事になるのはいや』と言って手を握る、箱根のレストランで『いっしょに生きたい』と言って手を握る。 今の時代相手の手をとって思いを伝えることって、できるようでなかなかできない。 なにかしら救われたような場面でした。(これはきっと豊川さんの手だからでしょうか)
菊治は恋愛においては、精一杯のところがあって気持ちだけで動いている風に思えるのに、自然にさりげなく、きざでなく女の手を握るという行為はまさに豊川悦司にしかできない手の技ですね。 鶴橋監督は、おわらを想わせる冬香の手に恋の魔法をかけて、その手を追い求める菊治の手も魔法にかかってしまったようです。
出会いのシーンは恋する瞬間を男性の視点で捉えています。表面には見えないけれど男性の熱情を表現しているのではないでしょうか。それをおわらという踊りで菊治は伝えています。 女はストレートに男に熱情を露にしますが、男はそうじゃない。 そんな男性の熱情を駆り立てるような女性を描き、そしてまた求め続けているのでしょうか。 |
No.714 - 2007/03/11(Sun) 02:48:08 [ppp210135150039.isdn.flets.nmt.ne.jp]
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