Chihiro Sato-Schuh 3時間 · 【内なる支配が解ける】 一極支配から多極化世界への移行が、国際的なレベルで起こっている中で、私たちの意識もまた、いかに一極支配の考えでできていたかということに気づかされている。 私たちは、これがいい、これが悪い、ということを外からの基準として持っていて、それに自分を従わせてきたのだ。そして、それを秩序とか進歩とか呼んできた。そういう風に、外から与えられた基準に従うことがいいことだとか自分を高めることだとか思っているから、それを人にも押しつけようとするのだ。そして、多くの人をその基準に従わせることが、自分の名声を高めることであり、支配力を高めることになる。 まさにそれが、支配欲というものになっていたのだ。人を自分の基準に従わせられないとき、自分が無力だと感じたり、侮辱されたように感じたりして、何とか相手を従わせようとして、いろいろな手を使う。非難したり叱責したり、怒鳴ったり暴力をふるったりする。そういうゲームを、人類はこの200年くらい、集中的に行なってきたと思う。 暴力的に支配すれば、支配された方は、いつかは支配から解放されようとするわけだから、絶えず戦っていなくてはならないことになる。相手が強くならないように気をつけていなければならず、反撃してきたら、取り押さえるべく防衛していなければならなくなる。 リビアやシリア、イラクでは、政権が民主的ではないというので、NATO軍が攻撃して、政権を交替させようとした。どの国も、西洋的な民主主義国家でなければいけないと言うのだ。その結果、国はボロボロになって、国民は前よりも苦しむことになったけれど、そんなことはどうでもいいらしい。自分が従っている基準に皆を従わせるということが重要なのだ。支配欲とは、まさにそうしたものだ。 1950年代のアメリカで、「オンリー・ユー」で大ヒットを飛ばしたザ・プラッターズという黒人バンドの動画をたまたま見ていて、実に奇異な感じがした。アメリカに黒人がいるのは当たり前のようになっているけれど、この頃のアメリカ黒人は、明らかに奴隷の扱いを受けていた。まだアパルトヘイトがあって、黒人解放運動が始まっていた頃のことだ。白人が作った曲を、白人がプロデュースして、白人が気に入るように、黒人に歌わせている音楽だ。確かフォト・ジャーナリストの吉田ルイ子だったと思うけれど、70年代のマンハッタンでも、世界的に有名な黒人のジャズ演奏家が、白人のパーティに呼ばれて演奏しても、客席に着くことは許されず、台所で使用人たちと食事をしていたと書いていた。ザ・プラッターズは、それよりも前の時代のバンドだ。 アメリカ大陸にやってきたイギリス人たちは、原住民を殺戮して追い出してしまい、その代わりにアフリカから黒人奴隷を連れてきて、使役していたのだ。原住民が大人しく奴隷になって使われていれば、彼らは満足だったのだろうけれど、そうではなかったので、**てしまった。そういうやり方で、オーストラリアもニュージーランドも、イギリスの植民者たちが支配していったのだ。 古代ギリシャの時代にも、異民族を「聞きづらい言葉を話す人々」という意味のバルバロイという言葉で呼んで、征服して奴隷にしていたから、その頃からすでに、この一極支配の伝統があったのだ。それに続くローマ帝国は、他の土地の人々を武力征服して、属州にすることで、富を成していた。その支配欲が、ローマ・カトリック教会とイギリス王室に引き継がれて、今日まで続いている。すべての人々を同じ基準に従わせて、それによって権力と富とを成し続けようとする人々だ。 こうした一極支配は、「こういうのが文明的だ」とか「こういうのがちゃんとした生活だ」という風な意識として、私たちの潜在意識の中にまで入り込んでいる。それで、私たちはその基準に従った生活をしようとし、それができない人たちを軽蔑したり、かわいそうだと思ったりする。 しかし、この一年くらいで、世界の多極化が進んできたら、そうした意識が、作られた思い込みでしかなかったことが、どんどん表に出てきているようだ。それは、文明的に進んだことでも、高尚なことでもなく、単に支配者たちが押しつけている基準にすぎなかったのだ。 この一年、サンクトペテルブルクで行われた国際経済フォーラムやロシア・アフリカ・サミットで、アフリカやアラブのいろいろな国から参加した人々が、それぞれの伝統、それぞれのあり方で、自由に振る舞っているのを見て、世界はこんな風でもあり得るのだと思った。今までのあり方では、すべての国が西洋的なあり方を一方的に押しつけられ、そうでない国は小さくなっていた。国際社会とは、そのようなものだと思っていたけれど、そうではないあり方もあったのだ。そして今、そのあり方の方が主流になりつつある。 一極支配から多極化へ移行するのは、内なる自分を内なる支配から解放するようなことでもあるのだと思う。何世代にも渡って内面化されてきた支配から、自分自身が解放されること。学歴だとか職歴だとか、理想的な家族だとか、立派な家だとか、そういうものに私たちは、これまで自分自身を従わせてきた。そして、自分自身を従わせてきたからこそ、人にも同じ価値観を押しつけ、従わせようとしてきた。 だけど、世界中にはありとある人々が生きていて、ありとある生き方がある。その多様性こそは、豊かさなのだ。そこに意識が向いたとき、私たちは、自分自身にかけていた呪縛からも解き放たれて、自分が自分であることを許すことができるようになるのかもしれない。そしてそうなったとき、私たちはもはや誰かを従わせることも誰かに従うこともなく、たがいに協調し合って生きていけるんじゃないかと思う。 |
No.2341 - 2023/11/30(Thu) 09:59:29
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