中也の四季メモ
○樋口覚「いのちの声」から 中也は四季折々の自然を沢山歌ったが、これは短歌にもダダ詩にもないかたちで歌われている。 中也の詩で季節に関する言及がない詩を探すのが困難なくらい、彼は「季節の詩人」であり、また一日の天気の事象にも詳しい。季節の提示から入る詩がとても多く、そこから身を揺り起こして、おもむろに詩の内部に入ってゆくのが中也詩の明らかな特徴である。 中也は自然や気候の変化を巧みなフレーズに乗せて歌う。しかし、自然が中也の生の感覚と切り離されて歌われたことがないことを考えると、中也という詩人は、わが国古来の詩人のように春夏秋冬の自然を歌う「自然詩人」ではなく、むしろ「人間詩人」といった方がよい事に気付く。特に気候がこの詩人の五感に与えた影響は、不感無覚を希望した哲学者のスピノザや、自然に自己を埋没させたわが古典詩人とは異なる。気象は、それによって触発されて詩を書くための契機であり、そこからかえって人間の本質へと向かう触媒でもあった。 「春の夜」
○中村稔「中也を読む」から この作品の主題は、「ああこともなしこともなし」「希望はあらず、さてはまた、懺悔もあらず」 「祖先はあらず、親も消ぬ」と言うような句に示される、詩人のそこはかとない空虚感であり、 倦怠感である。「山つつましき」と始まる第5連の2行のように措辞いまだ定まらぬ感を与える表現もふくまれているが、全体としてはよほど整い、詩人がその詩法を確立する日も近いことを思わせる。 窓枠を通してみる一枝の桃色の花という優艶なイメージ、第6連のおぼろな室内の女性への連想、、、、 これらは未来への希望を持つわけではない、過去に悔いを残すわけではないと言いながらも、青春の若やいだ憂愁を反映している。埋めた犬が、どこかでサフラン色に湧き出でる、そう最終連は歌う。過ぎ去った日々は捨てられた犬のように埋没しているのに、ふと鮮やかによみがえってくる。そういう思い出の氾濫に身を任せながら、それが春の夜だ、と詩人は結ぶのである。
「秋の夜空」
○中村稔「中也を読む」から 中也の詩には瓦礫も多いし、その一句をとっても蕪雑に思われる場合も屡々である。この作品もだいぶ貧しいものの一であろう。ただ、いつも中原の詩には中原中也という詩人の強烈な個性が貫かれているところがあって、一旦とり憑かれると、一見粗末な作品にも、立ち去りがたい詩人の体臭を感じる。 この作品は詩想もいわば他愛ないし、「すべすべしている床の上、金のカンテラ点いている。」などという表現は出来の悪い童謡をみる如くである。しかも、最後の2行が、いろいろの空想をそそるのである。 中原には、上天の彼方にいつも、遠望しているものがあって、中原だけが見ているのだが、さりとて 近づくわけにもいかず、知らないあいだに退散するより仕方がない。この種の発想がこの詩人の晩年の主調音なのだが、その萌芽がすでにここにあるとみてもよい。同時に、静かなそれでいて賑やかな祝祭からはじきだされている、わびしい観客に若い中原中也の孤独をみることができよう。
○樋口覚「いのちの声」から ワンダーランドとしての空を歌う 空は、この詩人にとって見上げる「下界」のパノラマであり、彼が空想する様々な「もの」が立ち働くワンダーランドである。空は決して「空虚」ではなく、いつも活気を帯びているか、悄然としているかのどちらかである。というのは、空は地上界を持ち上げた世界であるか、さかしまの地上界だからである。空の変容、天気のありようをこまやかに、そして魅力的に描く中也にとって、空はオブシェッションであり、そこには、雨や霧、靄、雲や月や太陽の変幻と消長が見られる。この国独特の湿気の微妙な変化を中也は描く。それは確かに地上からは届かない他界であるが、人間が交渉する豊富な劇を内蔵した世界であり、生々しい地上世界の裏返しか、それを色濃く反映する場所でもあった。
「帰郷」
○中村稔「中也を読む」から 第1連から第3連まで、詩人は優しい故郷の情趣につつまれている。「心置きなく泣かれよと/年増婦の低い声もする」。故郷とは心置きなく、悔い嘆くことのできる場所であった。だが最終連の2行で突然転調する。それまでの3連がほぼ口語七五の音数律によるのどかな語りかけであったのに対し、にわかに調子が乱れて、風が詩人を咎めるのである。「ああお前は何をしてきたのだ」と。後にもみるように、中原は故郷山口に深く繋がれていた。同時に郷土の眼はいつも呵責な負担となって、彼にそそがれていたのである。
○「日本の詩歌」から 湯田は緑の小山に囲まれた平和な温泉郷で空も山の木々も路傍の草さえも、帰郷した彼を慰めたのであろう。彼は生活者として無器用で、生涯定職とてなかった。いわば武者修行に、田舎から京都や東京へ出て行ったようなもので、帰郷は彼を心から慰藉句するのであった。彼が幼少年時代厳しく叱られながらも深く愛された記憶につながる郷里――それに対する彼の感情には、いつも穏やかで甘美なものがあった。
○「近代の詩人」から 加藤周一 ああ おまえは何をして来たのだと――― この1行は中原の「帰郷」なるものを、殊に失意の中での帰郷を、鮮やかに要約している。そう問いかけるのは、故里の自然、さやかな風である。故里は、少年時代の思い出の、柱や庭や路傍の草ところ、「年増婦の低い声」がいうように「心置きなく泣」くところであり、何かをするところではない。 一方には感覚と情緒―――すなわち行為につながらぬ感情があり、他方には意思と行為がある。一方は 帰郷を必然的にし、他方は離郷を必然的にする。帰郷は一時的でなければならない。 Answer is blowing in the wind. ディラン トーマス 中也の「吹き来る風が 私に云う」。その言葉は、易しく、明瞭で、気取りがなく、なめらかに流れながら、決定的に重要なことをいう。故に余韻あり。
除夜の鐘
○「日本の詩歌」から 遠い空から響いてくる除夜の鐘を聞きすましている。すると、人間の様々な営みや、千万年もの歴史が浮かんでくる。「子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ」という1行はいつの世にも変わらない幸福な情景である。もう一つの特徴的な詩句は「その時囚人は、どんな心持だろう」である。親兄弟と一緒に大晦日の晩を過ごす幸福とは反対の、たった一人獄舎につながれた不幸な孤独の人を思うのだ。詩人の生活意識は孤独であったから、獄舎の囚人の孤独感が、にぎやかな街の様子と対照的に、一層切実に想像されたのに違いない。
○中村稔「中也を読む」から 除夜の鐘を聴く詩人は、それが暗い遠い空から響いてくること、千万年も古びた夜の空気をふるわせて響いてくることを聴きわける。そして、空間と時間とを超えた永遠なるものを聴きわけるのである。 彼はそういう永劫の流れの中の人間の営為を思う。父母の膝下で蕎麦を食べる子供、牢獄の中の囚人、銀座や浅草の盛り場にあふれる人出…。それらの幸福な、また不幸な生活を超えて除夜の鐘が鳴っている。この作品には、いくつかの作品で見てきたような無常感がある。ただ同時に、確実に人生との和解があり、その優しさがあるのである。
「春の雨」「夏の海」の解説のような文をご存知の方、教えてください。 No.41 - 2010/02/11(Thu) 21:06:49
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